| 2012年2月 | ||
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| 平成24年2月28日(火) 第449号「H.I.S.がまだできてなかったころ」 先日、佐賀市内でH.I.S.(エイチ・アイ・エス)の澤田秀雄会長の講演を聞く機会があった。海外旅行取扱高ではいまや日本で一番大きな旅行代理店となったH.I.S.。この草創期のころ、僕はH.I.S.の前身の会社からチケットを買ったことがあったことを思い出していた。 昭和56年(1981年)の冬、僕は大学5年生だった。留年して公務員試験を受け、秋に自治省入省が決まり、ほぼ単位も取れていて、時間的に余裕があった。学生のときにしかできないことをしよう、と思い、シベリア鉄道に乗ってヨーロッパに行くことを思い立った。 かつてボート部の先輩方が、昭和11年のベルリンオリンピックに出場されたとき、シベリア鉄道経由でくたくたになってベルリンの駅に到着したところ、そこに当時在ベルリン日本大使館の館員だった牛場信彦先輩が待っていただいていた、という話を聞いたことがあったからだった。 (「東京大学漕艇部百年史下巻」にも、5月18日東京駅発特急「富士」で東京を離れ、神戸から船で大連へ。大連から特急「あじあ」で23日の夜遅くハルビン着。24日朝ハルビン発の国際列車でモスクワに向い、31日夜モスクワ駅に到着。翌日モスクワ駅を出て6月3日午前8時ベルリン・フリードリヒ駅に到着。そこに牛場信彦氏が迎えに来てくれていたことが記録されている。) ソ連旅行は当時もいまも限られた代理店しか扱えない。「日ソツーリストビューロー」というところを探し出し、そこのツアーに参加することになった。ただ、このツアーはモスクワで解散。帰りについては自分で手配しなけばならなかった。現地で買うことも考えたが、当時はそれだけの技術も度量も持ち合わせていなかった。そもそも帰りの航空券なしには入国できなかったかもしれない。 どこで買おうか迷っていたとき、大学構内の壁に「秀インター ヨーロッパ格安 ロンドン5万円〜」みたいなチラシが張ってあったのを見た。「秀インター」。聞いたことのない名前だ。でもなんか気にかかってその「秀インター」におそるおそる電話をしてみた。「パリから成田までの片道航空券を買いたいのですが。」 社名としては「インターナショナルツアーズ」だったと思う。「秀インター」は商品名だった。(いまから思えばそれは創業者澤田秀雄さんの「秀」だった。) 「成田ーパリ往復ですと、もっともお安いのがパキスタン航空で14万円になります。向こうからの帰りの片道の金額ですか。ちょっとお待ちください。(ややあって)、ええと、その場合は12万円ですね。」 「ええっ?」 ちょっと驚いた。 片道だから半分とまでは思わなかったが、まあ、9万円から10万円かなと思っていたので12万円とは意外だった。その空気を察したのだろう。電話の向こうでスタッフの人がこう言葉を継いだ。 「成田からパリに行く、行きだけ、というのと帰りだけ、というのとでは値段が違うんですよね。帰りだけ、となるとどうしてもかなり高くなってしまいまして。」 それだけのやりとりだったが何か信頼できるものを感じ、そこで買うことにした。旅行費用については、「就職したら毎月1万円づつ返済する」という約束でボート部の先輩から30万円借りていたが、その中で12万円というのは大きな出費だ。聞いたこともない会社によくもそれだけの額を支払うことを自分で決断したと思うが、それが若さなのかもしれない。 当時の事務所は西新宿の裏方だったような気がするが、そこに行って代金を払った。 そのとき、もう一つ言われたことがあった。 「当社、会員制になっておりまして、入会金が1,000円になります。」 なぜ会員制をとっていたのかの詳しい説明は覚えていない。1,000円だし、手数料のようなものか、と思って支払い、それと引き換えに、紙でできた会員証をもらった。いまももっていれば値打ちものなのだろうが度重なる引っ越しでどこかに紛れてしまっている。でもなぜ会員制だったのか。 その謎は、先日、解けた。澤田さんに当時のことをおたずねしたところ、こういう答えが返ってきた。 「昭和56年ですか。まあ、古い時代からご愛顧いただきありがとうございます。あの当時は、いわゆる格安航空券を個人に販売することは法律的に認められてなかったんです。だからあくまでも個人ではなく会員向けのサービスとして取り扱っていたんです。それで会員制だったんです。」 その後、その法律(旅行業法)は改正され、そういう面倒な手続きはいらなくなり、海外旅行の航空券は劇的に安くなった。いまから思えば、個人に格安航空券を販売できなかったということが不思議でしょうがないくらいだが当時はそうだったということだ。 当たり前になったことがかつては不自由だった、ということがいろいろある。そしてそうだった時代のことが半ば信じられなくなる。それは、ある建物が取り壊されてしまった後、ここにもともとどんなものが建っていたのか思い出せない、というのとちょっと似ている。 澤田さんと話をしたのは短い時間だったが、たくさんのヒントをいただいた。おいおい紹介していきたいと思う。 ちなみにそのとき買ったパリー成田のパキスタン航空。経由地は、パリーフランクフルトーカイローカラチー北京ー成田 だった。当時はそれがうれしかった。 ふるかわ 拝 |
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| 平成24年2月23日(木) 臨時増刊号「THREE MINUTE TRIP TO SAGA」 先日、佐賀県の新しい(というかはじめての)PVを公表した。佐賀県のポータルサイトからでも観ることができるが、youtubeにもアップしている。「THREE MINUTE TRIP TO SAGA」とあるが、全部で6分ちょっとくらいの長さ。よかったらまず見ていただきたい。(前半と後半があるので最後までごらんくださいね。) ふつうの自治体の観光ビデオとはかなり違うつくりになっている。 もちろん日本語のほか、韓国語、中国語(繁体、簡体)、英語版もある。 公表したのは2月14日だったが、外国語版も含めたyoutubeの再生回数は、本日23日までで(ということは実質10日間で)2万4千回を超えている。一般論として、ひと月に2万5千回再生されればコンテンツとしてはまあ成功した部類だと言われているが、それははるかに超えることになるだろうと思う。 ツイッターやフェイスブックでも、このPV情報が拡散している。そこでのコメントもとてもおもしろく、勇気をいただくものが多い。 「佐賀に行きたくなった。」「お腹すいてきた。」などなど。 「かっこよすぎ」というコメントもあった。たしかにそれは言えるかもしれない。 このPVは、佐賀県を訪れた人、あるいは佐賀県外で(海外を含む)佐賀県を紹介し、プレゼンテーションする際の話題のきっかけにできればと思って制作したものだ。 企業を訪問すると、まず最初に「では、わが社の歴史(や当工場の概要)のビデオをごらんください。」と言われることがよくある。あれに触発されて、佐賀県を訪れた人に、「まず佐賀県がどういうところかごらんください」と前置きして流すPVを作ることにしたのだった。 佐賀県出身のクリエイティブディレクターの倉成英俊さんにお願いし、倉成さんがお持ちのネットワークを駆使していただき、クリエイターはほとんどが佐賀県出身という「佐賀県しばり」でこの作品を作っていただいた。 佐賀県庁の担当職員はいろいろ考え、ブレストしたり意見交換したりしたようだが、僕を含む佐賀県上層部のポリシーは決まっていた。「まかせる。いいと思ったようにやってほしい。」 おかげでこういういいものができた。 このPVはあくまでも話のきっかけを生むためのものだ。 「あれに出てた佐賀牛だけど。」「最初に出てきた焼き物は有田焼でしたか。」 このPVを肴に会話が弾むことを期待している。 先日、これをHTBの(というかH.I.Sの)澤田秀雄社長に観ていただいた。急なお話しだったので手元にあったPCで映し出した。終わったあと、一言アドバイスをいただいた。 「これ、いいね。できればいいスピーカーを使って再生するともっとよくなるよ。いいスピーカーで少し音量大きめに。」 秀でた方は何をごらんになっても大変すばらしいご指摘をされる、と感心したことしきりだった。 ところでこのPV、いろんなしかけがある。 僕がスタッフからこっそり聞いたところによると、それは再生開始後15秒、タイトルコールの直後に起こるらしい。 画面上から左に・・・・。 何か願いごとがある人にも楽しんでいただけるPVだ。 ふるかわ 拝 |
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| 平成24年2月21日(火) 第448号「G1サミット2012 余話『三沢でねぶたを』 2月10日から12日まで青森県三沢市古牧温泉で開かれたG1サミット。そのセッションの一部は先週紹介したが、今回はその続き、というか余話。 一日目。僕は東京駅から新幹線に乗り八戸駅に着き、そこからバスで会場に向かうことになっていたのだが、バスの道中が約40分と長いこともあって、八戸駅の売店で新聞を3紙買い込んだ。デーリー東北、岩手日報、東奥日報だ。 なんでそんなことをしたかというと、この八戸という地域、三沢もそうだが行政区分では青森県だが歴史的な区分でいえば旧南部藩。つまり岩手県とのつながりがとても強いところだ。だから、駅の売店には青森の県紙である東奥日報のほかに岩手日報も置いてあるし、それに飽きたらず地元八戸に本拠のあるデーリー東北という地方紙も存在している。そういう地域的な特徴のあるところだったからだ。 おかげで退屈せずに車中を過ごし、宿に着いた。宿は大規模な温泉ホテルで、一度破綻しいま再生中のところだった。聞けばかつてはこの宿はその地域を代表する古牧グランドホテル(第一から第四まであった)という有名なところだったとのこと。広大な敷地に宿だけでなく、ボウリング場、渋沢栄一の屋敷(渋沢邸)、岡本太郎記念公園、とおよそ脈絡が感じられない施設が点在する代物だったらしい。ここが再生にかかり、新しく経営を引き受けるところが決まり、観に来られたとき、彼らを出迎えたのは宿の玄関先の大きなカッパ(河童)だった。 「カッパかあ。再生の大変さを予感しました。」と、そのうちのひとりだった彼は言う。「一言でいえば『テーマ』、『レス』、『パーク』でしたね。」 「苦労は多いですが、おかげさまで当時と比べていまはかなり宿泊率が上がってまして」と彼が言う。 「さすがですね。どういう工夫で数字がよくなったんですか。」 彼はにやりとした。「部屋数が多すぎるんで、ずいぶん閉鎖したんです。それで稼働率が上がってるんですよ。」 それはともかく、スタッフの人たちのおもてなしの心は大変快い。 そしてこの再生中の宿(今の宿の名前は「青森屋」)のウリが、予約制で楽しむことができる青森の伝統祭り大会だ。 従業員が青森市のねぶたや弘前市のねぷた、五所川原市の立ちねぷたなど青森県の伝統的な祭りの囃子を演奏してくれ、それに合わせて宿泊客も踊るというものだ。ねぷたのほか八戸三社大祭の囃子というのも披露されたがメインはねぶた(ねぷた)だった。 司会の盛り上げ方もうまく、みんな大満足。なかなかのものとお見受けした。 ただ、ふと思った。ねぷた(ねぶた)は、いずれも津軽地域のものではないか。南部地域の三沢市にある温泉でこうした催しが行われている、ということについて地元の人はどういう感じをおもちなのだろうか。 その謎は翌日解けた。たまたまランチで一緒になった方が八戸の方だった。「昨日の、ねぶた祭り大会ごらんになりました?」 「はい、見ました。」 「ねぶたって津軽の祭りですよね。三沢の旅館であの祭りの大会をやってることについて、なんか違和感はないですか?」 答えはシンプルだった。 「ありますねえ。」 念押しもあった。「八戸の人間からしたら、ここでねぷたをやらなくてもいいだろうと思います。」 その方はこう付け加えられた。 「でも八戸まで新幹線がきてわかったことがあるんですよ。それは、お客様は八戸に来たって言わない、青森に来た、っていうってことなんです。自分たちからしたら『ここは八戸であって青森じゃない』と思うんですが、遠くから来た人はここが青森だと思ってるんですね。」 「その意味じゃ、ここの宿だって、名前が『青森屋』でしょ。ほんとはこの地域の旅館としてつける名前じゃないような気がします。でもここでは、自分のところに来た人は『青森県』に来たと思ってるんだからそういう接客をしよう、ということを徹底してるんじゃないですかね。」 県単位で物事を考える習慣ができている僕らのような存在にとって、とてもとても参考になる意見だった。 ふるかわ 拝 |
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| 平成24年2月14日(火) 第447号「G1サミット 2012」 先週末は青森県三沢市にいた。G1サミットだ。僕と同年代あるいはそれ以下の経営者や政治家たちが集まって日本のこれからを考え、議論し、行動していく、という集まりで今年が4回目。僕は昨年から参加している。 その中のひとつのセッションが、「iPS細胞が再生医療を実現する日」だった。 iPS細胞という言葉だけでわかるようにメインスピーカーは山中伸弥教授。それに山中先生をファイナンス面で支えるコラーキャピタルの水野さん、そして山中先生と小中高と同級だった自民党の世耕参議院議員が加わり、内容のある話をうかがうことができた。この議論の内容は発信自由ということだったので紹介させていただく。 なお、山中先生は残念ながらweb参加だった。論文がたまりにたまっていて、「こどもでいえば8月31日状態」。青森まで来ていただくよりはセッションにはwebで参加していただいて、あとは論文の執筆に充てていただく、ということでそういうことになった。 まずは山中先生のプレゼンテーションから。 iPS細胞とは、という話から始まり、要するに「どんな細胞にも変化しうる可能性をもった細胞」ということで、けがや病気で損なわれた部分を回復したり、作り出すことができるようになる、ということだった。 続いて京都大学のiPS細胞研究所(山中先生はここの所長)の写真がアップされる。 なかなか立派な建物だ。そして知的財産権グループのメインの8人の写真。いかにも恵まれた研究環境だなと思ったら山中先生の話は深刻だった。その名も「2014年問題」。 いま山中先生が活用されている文科省や内閣府の各種のプロジェクト資金が2014年度に尽きてしまって、そのあとはスタッフの人件費も払えないという。この研究に関わっている人の数は半端ではない。約300人いる。そのうち大学の正規職員(教員)は10名くらいで、あとはすべて非正規というか期限付きの人たちばかり。このままだとその人たちも職場がなくなってしまうのだという。 世界的な、というか人類の歴史を変えるような研究なのに2015年以降の資金のめどがない、というのだった。 「とにかく資金を集めなければならない。」資金担当の水野さんは言う。 とはいえ、山中先生の本分は研究。本当は資金集めしたり講演しているよりは研究をしてほしい、というのが正直な気持ちのようだ。 「だから、先生に講演をお願いする人には言ってるんです。先生の研究時間を割いて講演をしていただいているのですから、そういうつもりで聴いていただきたいと。経済界の人に頼まれた場合にはその分だけ寄付をしっかりしてほしいともお願いしています。先日は500万円お願いしますと申し上げたところ、講演後、600万円以上の寄付が集まったということもありました。」 それでもぜんぜん足りないようだ。 個人や法人が国立大学法人などの公共法人に寄付した場合は、税制上の優遇措置がある。個人であれば寄付金を所得税の課税所得から控除することができる。つまり税金が安くなる。さらに寄付控除を確定申告ではなく年末調整でできるような制度改正も検討されているという。 ぜひ、納税者から見て魅力のある制度にしてもらって、寄付が盛んに行われるようになればと思う。 さて、こうした人類初の研究の際に大切なのが知的財産権の問題だ。さきほど述べたように山中先生のところには20人くらいの知的財産権チームの人たちがいて、その人たちのがんばりで日本のほか、米国や欧州でも基本特許が取れたという。 海外、とくに米国での審査は大変で「完全アウェイ状態」だったという。ただ、これで安心とは言えない。「基本特許が取れたことで『iPS細胞の製作技術はヤマナカが開発した』ということは認められたのですが、これで戦いは終わらないんです。あのアイデアは俺が出した、と主張しているアメリカ人がいるんですよ。」 「知財の裁判はこれから米国で起きてくると思います。そうなるとアメリカの弁護士を雇わないといけない。またお金がかかります。さらに審判という制度もあります。これは裁判員みたいなものでいわば素人が判断することになります。その際、その人たちが何を元に判断するのかわかりませんが、グーグルで「iPS cells」(万能細胞)を検索するかもしれません。そのときに一番上に何が来るか。そういうことも大事なことなんです。残念ながらいまはいちばん上に山中先生のことは出てこないのです。」 実際にやってみた。いちばん上はwikiだったが、たしかにすぐには山中先生のことが出てこない。それどころか画像で出てくるのはアメリカ人の教授の画像だった。これではiPS細胞=山中先生とは認識されない可能性がたしかにある。そういうことに対する対応も必要なことらしい。 このセッションに参加し、やりとりを聞いていた聴衆の中に脳科学者の茂木健一郎さんがいた。(聴衆のほうに、ですよ!)茂木さんがこういうことを尋ねた。 「山中先生、2007年における先生の業績は大したものだったと僕も思います。けっこう多くの日本人は『ああ、これで万能の薬がすぐにでもできる』と勘違いしたと思います。ところがその後あまり話題になっていない。その人たちにその後先生が何を研究されているのか、何が問題なのか、教えてやってくれませんか」 山中先生の答えはこうだった。 「問題点は本当に人体に有害ではないのか、という実験が必要とかいろいろあるのですが、でも私は日本人がそんなにわかっていないとは思わないですね。」 先生は続けられた。 「たしかに2007年に発表したころには明日にでもこの研究成果を活用した治療法や新薬ができる、と思っている人もいました。また『自分の体をモルモット代わりに使ってほしい』という話もありました。でもこんな話もあるんですよ。娘さんが難病を抱えている、というお母さんがおられまして、その方からいただいた手紙にこうありました。 『うちの娘は難病で治療薬がありません。それでもだましだまし薬を飲みながら今日まで来ました。でもこの新聞記事を読んで、もう少し待てはこの病気の薬ができるかもしれない、と思うようになりました。この記事を娘にも見せました。娘も喜んでくれました。その薬がいつできるのか私にはわかりません。でも待っていれば、生きていればいつかはその薬ができるかもしれない、というだけで生きる希望が湧いてきています。生きる意味が出てきています。ありがとうございます。』 そういう内容でした。私は、多くの日本人はよくわかっていただいていると思います。」 最後に先生はこう締めくくられた。 「これまで日本人の研究の中で世界をリードしたものって、ほとんどがたしかに日本人が研究しているんだけど、海外の大学や研究機関で日本人が行ってきたものばかりなんですよ。でも、このiPS細胞の研究は、日本人が日本国内で研究して開発して世界をリードしている唯一といっていいものです。なんとか成功させたいと思っています。」 雪景色の青森県でこうしたセッションが3日間にわたって行われたのだった。 ほかにも思わぬ人に会ったりと、充実のG1サミットだった。 去年はこのG1サミットがきっかけでIT関係の優良企業1社が佐賀県に立地してくれた。 今年もぜひ何かの成果をもたらしたい。まずは名刺の整理から。 ふるかわ 拝 |
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| 平成24年2月7日(火) 第446号「韓国 全羅南道訪問報告 麗水万博会場」 この週刊yasushiがアップされた2月7日(火曜日)、僕の身体は韓国・全羅南道のホテルにある。 昨年の1月に締結した佐賀県と韓国・全羅南道との友好交流協定締結一周年を記念しての県民訪問団として現地を訪れている。 5日(日曜日)にチャーター便で佐賀空港を出発した。約1時間弱で全羅南道・麗水(よす)空港に到着。1時間で着くとはほんとに早くて近い。あらためての距離の近さを実感した。魚も渡り鳥も国境に関係なく行き来をするはずだと思った。 麗水は人口30万人。韓国の中では比較的大きな都市。唐津市と姉妹提携して今年で40年になる。これだけの歳月にわたって交流を続けていると中には親子二代にわたって、ということも出てきている。麗水に行ったのがきっかけになって韓国語を学び始めた人も少なくない。今回の県民訪問団の中には唐津から参加された方も多い。そういう人は麗水空港に着いた瞬間から、「おー、おー」と現地の知った人を見つけて笑顔と握手。歳月を重ねていくとこういう交流が生まれているのだと思った。 僕は、数年前まで「友好交流関係」というものをそれほど重要視してなかった。知事就任直後の事務的なブリーフィングの中で「佐賀県はあちこち比較的行き来している外国の地域がありますが、友好交流関係に発展させる考えはありません。」という説明を受けた。「なぜですか?」と尋ねたら「お金がかかりますから」という答えだった。まあ、そういうものかと自分でも納得し、そもそもまずやらなければならないことがたくさんあり、その後は財政健全化に全力を挙げなけばならなくなり、交流どころではなくなった。(いまから思えばこの数年は痛かったが)。 あらゆる事業の見直しや職員給与の削減をやってようやく財政健全化に一定のめどをつけた。そして、あらためて国際化への対応をスタートさせたのが一昨年(2010年)。秋には上海万博に出展、そのときに上海伊勢丹で佐賀県としてはじめて海外での物産展を行い、翌年(2011年)の1月には韓国・全羅南道との友好交流と、いったん取り組み始めた後は、それまでの遅れを取り戻さんばかりにフルスピードで進めていっている。 今回、まず視察したのは今年の5月にスタートする麗水万博の会場だった。 韓国は博覧会好きで、いつもどこかで博覧会をやっている印象なのだが、この麗水EXPOは、上海万博のような総合的な博覧会だ。政府を挙げて事業を進めている国家の一大プロジェクト。 もともとは住宅のあった海沿いの土地を買収して広大な敷地に会場建設が進められている。準備は93%進んでいる、という説明だった。市内のあちこちでほこりが立つ感じで街全体がいかにも建設準備中の雰囲気。市内のあちこちに万博のスローガンが掲げられているが上海万博のような国家が統制し、あおり、という雰囲気ではなく、そこは市民が半ば楽しみながらやっている感じ。会場の近くには古いビルの一階にその名も「万博さしみ店」という名前のさしみ屋(というか居酒屋)まであった。名前が正式に使えるかどうかは別にして、とにかく使えるものは使おうというたくましさということではないか。 まず、万博の広報館で説明を聞いた。万博というと、暑い、待つ、くたびれる、という印象が強い。ただ、今回の説明を聞いて、麗水の万博は行きたい、と思った。というのも人気パビリオンはすべて予約制になるそうなのだ。スマートフォンの画面で予約して、その時間まではどこか別のところを見て、または食事や買い物をして、指定された時刻にパビリオンに行けば、30分待ちで入ることができる、というシステムにするのだという。 そう聞いたら行きたくなりませんか? さらには、会期中、数回だが、唐津から麗水までビートルが運航することになっている。これもまた魅力。3時間ちょっとの海の旅で会場の隣のターミナルに着く。今回の万博はテーマが海。海を渡ってくるのはぴったりではないか。 その後、会場内を視察。日本館の建設をされている方から現場で説明を受けた。「日本館の建設現場に来ていただいたのは佐賀県が初めてです。ありがとうございます。」と言っていただいた。佐賀県はいま、この万博のジャパンデーなどにどういう出展をしようか検討中。いい勉強になった。 ちなみにこの日本館の映像は現在作成中だが、この映像は障碍のある人でも楽しんでいただけるようバリアフリー化されたものにする予定だという。 英語と韓国語の字幕だけでなく、日本語の字幕もつけて、より多くの人に理解していただきやすいものにする、ということだ。このことは佐賀県が日本館に提案をしていた事柄、実現できそうでうれしい。佐賀県としてあちこちで訴えてきたこうしたバリアフリーやUD(韓国ではADと呼ぶらしいが)もこうした機会に韓国に紹介できないかなとも考えている。 ふるかわ 拝 |
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| 平成24年2月1日(水) 臨時増刊号「香港レポート、忘れないうちに。 人民元と香港ドル」 香港の春節前夜のニューイヤーパレード。今年は唐津曳山の五番山魚屋町の「鯛」がそのパレードに出動、やんやの喝采ならぬ「エンヤ!」の喝采を浴びた(という)。 とても盛り上がったようだし、曳山が傷つくこともなく、行事を終了できたことにまずはほっとした。 唐津の知人たちからは「おまえは当然香港に行くとやろもん」と言われたが、今回はお留守番を勤めさせていただきました。 魚屋町をはじめ曳山の関係者のみなさん、寒い中、長時間にわたって本当にありがとうございました。みなさまのおかげで無事曳山の出動ができました、とお礼申し上げたい。 さて、僕が先日香港に行ったときのことで忘れないうちに書いておきたいことがあったので今回はそれを。 久々にメインストリートのネーザンロードと広東ロード(ここを曳山は通ったのだ!)をバスで通った。平日の夕方だったのだがルイ・ヴィトンの店の前に行列ができていて入場制限がされていた。 「中国人ですよ」。ガイドさんが教えてくれた。 グッチの前にもエルメスの前にも同じような光景が広がっていた。 観光も貿易も中国本土との交流がトップ。当たり前といえばそのとおりだが、いまの香港をいかに中国人が支えているのか、という風景を見た気がした。 こうしたことを受けて、香港の経済では人民元が広がってきているらしい。最近では香港住民が人民元建てで預金をすることができるようにまでなってきた、という。 かつては、中国本土で買い物をするとき、お店から「人民元ではなく香港ドルをくれ」といわれた時代もあったようだが、いまではそういうことはないらしい。香港ドルよりも人民元のほうが喜ばれる時代になってきつつあるようだ。 香港の隣にマカオという街がある。この街の通貨はパタカという独自のものだ。経済規模が香港よりも小さいマカオにおいてはパタカの代わりに香港ドルで支払うこともできる。公定レートは1香港ドル=1パタカ。逆に香港に行って、香港ドルの代わりにパタカを出しても香港の人には受け取ってもらえない。これが通貨の力を示していると言ってもいいだろう。 香港ドルと人民元の関係も、やがてパタカと香港ドルとの関係のようになってしまうのではないか。そう、ふと思った。 同じようなことを思うひとはいろいろいるらしく、それに対して、香港政府は、「そんなことはありえない。香港ドルの価値は米ドルときちんとリンクしている。心配する必要はない。」と述べているらしい。たしかにそのとおりだと思う。 ただ、香港で人民元での支払いができるところはこれから増えていくだろう。一方、中国本土で香港ドルで支払うことのできるお店というのはなくなってきつつあるか、もはや存在していないかもしれない。 僕が最初に香港に足を踏み入れたのは1984年のことだった。そのころは、無法地帯と言われた九龍城がまだ存在し、ペニンシュラホテルの前からフェリーが行き来し、市街地上空を飛行して離着陸するカイタク空港が玄関口で、そしてパジャマが外出着だった。 あのころの猥雑な中にもつねに変化を続け発展していた香港という街に僕はとても魅力を感じ、その後しょっちゅうこの地を訪れた。楽しみだったのは映画だった。香港の映画館では当時英語や広東語の字幕が広く使われていた。画面を観ながら英語と中国語を眺めているとだいだいストーリーは理解できるものが多い。いちばん最初に観た映画は「古惑仔」という香港のチンピラシリーズの3作目の作品だった。そういう楽しみ方もある懐の深い街だった。 中国返還後、かつてあった独自性がやや失われて中国に近くなっている面は否めないが、それでも香港は中国本土とは文化や社会の成熟度が違う。ルールが透明で、駄目なものといいものがはっきりしている。 香港に長く駐在している日本人駐在員の人がこう言っていた。 「香港にいると中国の国内情勢よりも世界の情勢のほうが気になります。香港は街そのものが世界都市なんですよ。」 英語が普通に通じるという点も香港は上海とはぜんぜん違う。 面積にしてみれば佐賀県の半分以下というこの小さな世界都市を舞台に、これから佐賀県としてどういう展開をしていくか。さっそく香港でビジネスを、という相談も来ているところだ。 いい実践例を一つでもいいから早く出したいと願う。 ふるかわ 拝 |
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