| 2008年5月 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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| 平成20年5月13日(火) 第255号 「菓子博覧会」 先日「姫路菓子博2008」に行ってきた。 その名のごとくお菓子の博覧会で正式には「第25回全国菓子大博覧会・兵庫」。 お菓子屋さんに行くとときどき店の奥に賞状が飾ってあることがある。あの博覧会のことだ。 会場は、姫路城の周辺。お城の周りが公園になっていて、そこにある美術館・博物館のスペースを一部借りたり、仮設のパビリオンを作ったりして会場に仕立てている。僕が行ったのは4月下旬の土曜日だったが、とても多くのお客様でにぎわっていた。当たり前かもしれないが、女性が多い。70%くらいが女性だったのではないだろうか、と思う。 事務所でスタッフの方にお話をうかがうことができた。
全国の菓子を都道府県別に並べてあるコーナーもあり、佐賀県のブースには小城羊羹を中心に81業者のお菓子が陳列されていた。ただし、ここは並べるだけで、販売はない。佐賀県は81のうち小城羊羹が30数社、お隣の長崎県のブースはほぼカステラが数十社、という感じでそういうものがただ並べられているだけなので正直「とてもおもしろい」というものではなく人もそれほど多くなかった。 ところがその先に販売のコーナーがあって、そこは大賑わい。各県別にお菓子が置いてあり、佐賀県のものは福岡県と一緒のブースにあって北島さんと村岡屋さんのお菓子が販売されていた。 バーゲン会場並みの大賑わい。事務局の方がぽつんと「買うだけだったらデパートでもネットでも買えるんです。でもわざわざここで買ってもらってるんです。お客さんもここで買ったと言いたい、そのためにここで買い物をしていただいているんですね。ありがたいことです」とつぶやかれた。 ところで佐賀県は、名だたるお菓子王国だった。 4月26日付け佐賀新聞の1面下の村岡屋総本舗の広告にはこうある。 「かつて、日本には、森永をはじめ、グリコ、明治、新高と4大キャラメルメーカーがありました。新高製菓の創始者・森平太郎は、佐賀県出身者であり、現在、日本経済新聞最終面の連載小説「望郷の道」の主人公藤正太のモデルとなっています。著者北方謙三氏は森平太郎氏の曾孫にあたります。森平太郎は単身台湾へ渡り、新高製菓を起業。最盛期には日本全国はおろか、中国大陸にも販路を広げました。 バナナキャラメルや新高ドロップの名は団塊以上の世代の人々の記憶にしっかりと留められています。 森永製菓の森永太一郎、江崎グリコの江崎利一、そして新高製菓の森平太郎、戦前の4大キャラメルメーカーのうち3つまでもが佐賀県出身者の創始によるものです。佐賀県はキャラメル王国であり、戦前の佐賀人の三大職業は軍人、裁判官、菓子屋といわれていました。」 もともとはお菓子王国の佐賀県のはずなのに奇妙な記録もある。 ひとつが第1回のお菓子博覧会(明治44年の第1回帝国菓子飴大品評会)のときのこと、全国各地から出品があった中、佐賀県からだけ出品がなかったことだ。ひょっとすると、佐賀県からは森永が出ていたからだろうか? もうひとつが、このお菓子博覧会、九州で開催したことのないのが宮崎県と佐賀県だけだということだ。これだけお菓子に関して人もモノも出していながら、とやや不思議な気がする。 いずれにしても、こうした博覧会の成功の鍵は一にも二にも「人」に尽きることを感じ、暖かい気持ちになった。 ふるかわ 拝 お菓子でできた姫路城の様子:http://www.himeji-du.ac.jp/sweets/index.php?e=35 「姫路菓子博2008」:http://www.kasihaku2008.jp/ |
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| 平成20年5月7日(水) 臨時増刊号 「新幹線」 4月28日月曜日、新幹線事業のひとつの節目として起工式・記念祝賀式典が行われた。 僕はその起工式で挨拶をすることになっていた。いつもであれば挨拶は関係の資料をもらったうえで、自分で組み立てて話をすることにしていて、読み上げの原稿は式辞以外は作っていない。 でも、この起工式だけはほかの行事とは違うと思って読み上げ原稿を準備した。 この起工式はお祝いの式だ。そしてこれからの工事の安全を祈る式でもある。そういう式においては、基本的にはお祝いの言葉を述べるのが普通で寿ぎ(ことほぎ)の言葉以外は使わない。結婚披露宴のときの挨拶と考え方は同じだ。一方で、これまでの新幹線に関する議論や関係地域・住民のことを思うと、ただ、お祝いの言葉を述べるだけでは足りないのではないかとも考えた。かなり悩んだ。これまでの議論や経験をどう活かしていくと言えばいいのか。最終的に出来上がったのは起工式の10分くらい前だった。 平成20年4月28日 九州新幹線西九州ルート武雄温泉・諫早間建設工事起工式あいさつ 本日、冬柴国土交通大臣をはじめ、国会議員の皆様方、そしてまた多数のご来賓の皆様方にご臨席をいただいて、「九州新幹線西九州ルート武雄温泉・諫早間建設工事起工式」を開催できますことを、まことに喜ばしく、厚く御礼を申し上げます。 地元関係自治体を代表して、ひとことごあいさつ申し上げます。 この記念すべき日を迎えることができましたのも、ご臨席をいただいております、皆様方の、一方ならぬ、本当に、並々ならぬ、ご尽力によるものでございます。本当にありがたく思っているところでございます。 この日を迎えるために整備計画が決定された昭和48年からみますと35年という長い歳月を要しました。 この間、ルートが変更になったり、フリーゲージが導入されることになったり、また経営分離されなくなったりなどさまざまな面での変化がございました。そういう中でも、この西九州地域を全国の新幹線網に組み入れ、なんとか地域の浮揚を図っていきたいという思いの変わることはありませんでした。 新幹線整備についてさまざまな声があるのも事実です。しかし、東海道新幹線のときも最初はそうでございました。標準軌による新線整備については、当時の国鉄内部でさえ、異論があったと伺っています。 しかしながら、新幹線の整備が時代遅れになりかけていた鉄道の復権につながりました。 私は、今日の日を迎えるまでのさまざまな紆余曲折を思うとき、今回の新幹線整備に向けて寄せられた議論については謙虚に受け止め、そのうえで、私は今回の新幹線をそれゆえに必ずやいいものに仕上げなければならないという強い決意にいま立っています。 新幹線に限らず社会資本整備は道具であります。 ゴルフでも野球でもいいクラブやバットを手に入れただけでは飛距離が伸びるわけではないように、その道具を生かす知恵と努力が求められると考えます。そして新幹線はそれだけの努力をすればそれに応えてくれる優れた道具であるとも思います。 東京駅の新幹線18番ホーム下に、ある埋め込みがあります。 「東海道新幹線 この鉄道は日本国民の叡智と努力によって完成された」とあります。 当時の総裁のお名前などではなく、ただ、ひとことそう記されたレリーフに私は関係者の誇りを感じて仕方ありません。 そしてそこからホームに上がると、線路脇に鉄道の起点を示す「ゼロ標識」があり、また、ホームそのものにも「新幹線起点」が示されています。 今回の新幹線整備は直接的には中国関西地方との関係強化ということになるわけですが、この新幹線起点と最終的にはつながっていく、つまり国土軸の整備であります。 新しく新幹線が開通したとき、そこにどういう文字が書き込まれることになるのかまだわかりませんが、この新幹線が地域発展の優れた道具として多くの人に使っていただける存在になるように、約10年後とも言われている完成に向けて、私たちは東海道新幹線のとき以上に叡智を結集し、努力をしなければならないと思います。 そのためにも、ぜひともこの新幹線をより愛されるより使っていただける存在となるように皆様のお力をどうか賜りたいと思うのであります。 新幹線は、「つくる」から「つかう」へ。それによって、ネットワークが「つながる」。それを地域の発展に「つなげる」。こうしたことを目指していきたいと思います。 この新幹線は全国の新幹線整備計画上の路線で唯一着工されていない路線であり、いわば最後の新幹線であります。 これを「最後の新幹線」ではなく、21世紀型の「最初の新幹線」にすることをお誓い申し上げ私のごあいさつとさせていただきます。 平成20年4月28日 佐賀県知事 古川 康 思えば本当に「ロングアンドワインディングロード」だった。 ふるかわ 拝 |
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| 平成20年5月6日(火) 第254号 「青木龍山先生」」 4月27日(日曜日)、陶器市の準備に忙しい有田町の街並みを抜けて、故青木龍山先生のご自宅に弔問に伺った。仕事の都合で通夜にも告別式にも参列できなかったからだ。 文化勲章受章者で日本芸術院会員の陶芸家の青木先生は23日に亡くなられた。天目釉を中心とした技法で「黒の青木」と呼ばれ高く評価されていた人だった。 お忙しい中、長男の清高さんと敦子夫人に応対していただいた。
こういう話をしながら、先生の工房に案内していただいた。結果的に遺作となった牡丹文様の大皿がまだ描きかけのまま机の上に残されていた。牡丹がいまから咲こうとするタイミングの絵だった。
工房を出た。庭にはモデルとなった牡丹があった。遺作となった皿に描かれかけた牡丹はつぼみだったが、そこに在る庭の牡丹は花開き、むしろ落ちんばかりとなっていた。 「父が倒れたのが20日ですから今日でちょうど1週間なんですよ。忙しくて時間のことを考えるひまがなかったのですが、この牡丹を見てると時間が経ったんですねえ」。 清高さんがつぶやいた。 青木龍山先生はもはやこの世の人ではない。しかしながら、清高さんはすでに現代工芸美術家協会の理事であり、日展評議員にもご就任され、青磁の世界を極めておられる作家である。 先生もその点はほっとしておられることだろう。 ふるかわ 拝 |
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