| 2004年3月 | |
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| 平成16年3月30日(火) 第045号 「BREAK!のスタート」 もう、番組の宣伝(番宣ってやつですね)をがんがんやってるし、朝日新聞西部本社版にも載ったので知っている人も多いと思うが、4月3日から、僕はラジオ番組を持つことになった。 その名も「BREAK!」 いいでしょ、名前が。内容は、音楽や映画、佐賀県についての身近なおしゃべりみたいな感じになる。 NBCラジオで毎週土曜日の夕方5時からの30分。知事ということではなく、あくまでもプライベートで。たしかに、80年代の洋楽と佐賀県政はあまり関係がない。 実は前にもやっていたことがある。 僕が長野県にいた平成元年の冬、長野県をおもしろおかしく解説した「現代信州の基礎知識 HAMIDAS」を、県職員有志と一緒に出版した。 これがバクハツ的に売れた。どれくらい売れたかというと3万部売れた。ほぼ長野県だけで3万部だから、全国ベースに直すと(直しても意味はないけど)150万部くらい売れたのと同じくらいのインパクトがあったことになる。 というようなことがあって、平成2年の秋、SBC(信越放送)という地元のラジオ局から話があり、で毎週金曜日の午前8時25分から32分までの7分間、「信州HAMIDAS エッセイ」と題して、僕がしゃべる番組がスタートした。その日の朝の7時50分過ぎに自宅に電話がかかってきて、7分間しゃべる、という形でやっていた。 これはずいぶん長く続いた。僕がその後東京に転勤し、その後、岡山に行っても続いた。4年間くらいはやっていたのではないだろうか。 東京にいたころ、一時期カンボジアに派遣されていたため、カンボジアから放送したこともあった。おそらくは、カンボジアの現地から、政府関係者の声が直接音声で流れたのは、日本広しといえどもあのときだけだったと思う。 出張先から電話というのも多かった。困ったのが、放送(または収録可能な)時間帯に移動中のときだった。当時は携帯がなく、よく朝一番の東京(上野ですね、正確には)に行くあさま号の中で電話をかけてやっていたのだが、あまり電波状況はよくなく、いつもひやひやだった。 ある日突然、いつものように、あさま号の車内電話を使って生放送していたところ、突然、電波が切れてしまった。かけなおしたがつながらない。 なんども言うが、携帯がない時代である。ええい、といさぎよくあきらめた。 聞いていた人によれば、しばらくしーんとした後、曲が流れたそうな。 曲は竹内まりやの「駅」だったという。 ☆☆☆ 今回は、そういうことにならないよう、スタジオでやらせていただきます。 4月3日、午後5時ちょうどスタート。 番組のホットな部分はこのHPで、録音という形で聴けるようにしますので、これも楽しんでください。 ふるかわ 拝 |
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| 平成16年3月23日(火) 第044号 「ランキングに想う」 最近、たてつづけにランキングが出た。 まずは文藝春秋4月号の「全国知事ランキング」。webmasterが hitorigoto と題して、ちょこっと書いているけれど、よくもまあ、1位から47位(正確には同点があるので43位)までつけたな、というのが正直なところ。 審査員の人は47人全員に会っているわけじゃないと思うので、どうしても会ったことのある知事、情報発信している知事に点数が集まるということがあるのではないだろうか。 僕自身が何位だったかは、hitorigoto をみてもらうとして、僕自身の感想からいえば、10位まではまあ、なるほどという感じ。 11位から先は、たまたまの結果という印象かな。 いい悪いでなく、首都圏の一都三県の知事さんというのは、結果的に比較的高い順位になっていた。もちろん、それぞれの方のお力もあるが、たとえば全国紙をとってみても、大阪本社が作る紙面には比較的関西の知事さんの登場頻度が高いと思うが、東京本社が作る紙面だとどうしても首都圏や東日本の人が多く出るということがあるのではないだろうか。テレビのローカルニュースにしても首都圏にいれば、首都圏の知事が登場することになる。審査員のほとんどの方が首都圏に住んでおられるだけに、そういうこともランキング結果に反映しているのではないか、そんな気がした。 もうひとつのランキングは、全国都道府県の情報公開度。佐賀県は去年の37位から17位に大幅にランクアップした。 これはそういう結果を出したいということでやってきただけに素直に喜びたい。 先日、佐賀県は、鳥インフルエンザにかかったかもしれないという反応(陽性)を示したカラスがいたことをその時点で公表した。最終的な検査結果が出るには2〜3日かかる。では、それまでの間、何も言わずにおくのか。 「中途半端な検査の状況で公表するのはかえって混乱を招く。」という意見もあったが、最終的には、こういう状態にある、ということを公表すべきとの結論に達した。 その鳥(カラス)精密検査の結果、最終的には陰性だったが、それでも、陽性を示した時点で公表してよかったと思う。なんといっても県民の方々に、県はこういうことについて隠し事をしない、ということをわかっていただいたと考えるからだ。 こういうところが情報公開に対する姿勢の現れではないだろうか。 ふるかわ 拝 |
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| 平成16年3月16日(火) 第043号 「『明かり』と新幹線」 先週末、鹿児島中央駅から新八代へと向かう新幹線「つばめ」にはじめて乗った。 新幹線の開業式典へ参加した帰りのことだった。 鹿児島は、祭り一色だった。鹿児島に着いたのは開業の前の日の夕方だったが、すでに鹿児島中央駅(その日までは西鹿児島駅)ではにぎやかに開業を祝うイベントが繰り広げられていて、華やかな雰囲気。もともと用事のない人たちが、そのイベントを見に来ているからなのか、いつもの駅の風景とは違って、家族連れと、ゆっくり歩いている人や立ち止まっている人たちが目に付く。 なんか、これに似た光景を見たことがあった。オリンピックのときの長野駅の雰囲気だった。あのときも、街全体が華やいでいてなんだかうきうきしたけれど、それと似た感じだった。お祝いムード、というものが作り出す雰囲気、とでも言うべきものだったのかもしれない。 開業式典は朝5時からだった。南国鹿児島とはいえ、3月中旬の朝5時はさすがに寒く、ほとんど何もすることがないだけに余計寒さが沁みた。 式典そのものは、滞りなく終わり、しばらく間があって、僕は9:49発のつばめ4号で鹿児島中央駅から車上の人となった。 この新幹線の特徴やらなにやらはいろんなものに書いてあったので省略するけれど、その日、この時刻ぐらいまでは、このつばめに乗った人の一定割合は、鉄道ファンであるようだった。僕の隣に座った、40がらみの男性は、東京から「青春18きっぷ」で鹿児島まで来たと言っていた。 帰りは、日田でひな祭りを見て(佐賀のひな祭りは見たことがあるので、というのが日田を選んだ理由でした。念のため)、その後はその日のうちに京都までいければ、京都に泊まり、翌日、各駅停車で東京に戻る、という予定だという。 古川:「いつも開業の日には駆けつけておられるのですか?」 その方:「いや、はじめてです。今回、たまたま会社の休みがうまくこれと合わせて取れたものですから。」 休みさえ取れればぜひともという雰囲気だった。 この新幹線について、ひとつだけ言うと、これまで開業した新幹線の中でも、この鹿児島中央ー新八代間は、独立した開業区間としては、これまでの新幹線の中で、トンネルの区間が全線の69%といちばん高い。 東京の古い地下鉄路線である銀座線や丸の内線はあまり深いところを掘っていないので、渋谷や四谷、茗荷谷(全部「谷」だな)などで地上に顔を出しながら走っているが、そんな感じでこの新幹線は走っているというわけだ。 トンネル以外の地上の区間のことを専門用語で「明かり(区間)」というと聞いた。 「この地域は、「明かり」ですが、その先の○○山の手前からトンネルになります。」 というふうに使われている。 つまり、九州新幹線鹿児島ルート(鹿児島中央−新八代間)は、これまでの新幹線の中で、もっとも「明かり」の少ないものとなっているということなのだ。象徴的にいえば、工事区間だけでなく、既存の新幹線とリンクしない形での開業だけにたしかに経営的な光明という意味での明かりも小さいのかもしれない。 ただ、新八代から北は話が異なる。熊本を通り、新鳥栖を経由し、博多に至るルートの部分は「明かり」区間が多い。沿線人口も多く、ネットワーク効果も高くなるだろう。 JR九州や沿線自治体のトップから一日も早い全線開通を願う声が相次いだのもむべなるかな、であった。 九州新幹線鹿児島ルートは佐賀県内を11.7キロメートル通過する。佐賀県内での工事費総額は789億円。それを国と地元自治体(県及び鳥栖市)が2:1で負担する。自治体負担分については一定割合の交付税措置がなされるので、その残りの実質負担額ベースで県と鳥栖市を合わせて約145億円となっている。 鳥栖に新駅はひとつできるが、これだけ負担金を出す以上、それだけの効果あるものにしなければならない。 そのことをあらためて感じた。 ふるかわ 拝 |
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| 平成16年3月9日(火) 第042号 「最強の二番打者」 先週末、元西鉄ライオンズの豊田泰光さんが佐賀県に来られた。 なぜ、来られたのか、話は1月下旬にさかのぼる。 豊田さんは、日本経済新聞のスポーツ欄に「チェンジアップ」という小気味いいエッセイを書いておられる。1月下旬のある日の「チェンジアップ」は、もうなくなってしまった各地の球場のことがテーマだった。福岡 ・平和台球場や、東映の本拠地東京・駒沢球場などと並んで、佐賀県杵島郡大町町にあった杵島炭鉱グラウンドのことも書かれていた。 昭和28年4月、その杵島炭鉱グラウンドで西鉄ライオンズ対東急フライヤーズの公式戦が行われた。 その試合、デビューしたての新人であっ た豊田選手は、最終回の守備で何ということない打球をトンネルしてしまった。それが原因で試合は負け。博多に帰るバスの中、誰も口を聞いてくれなかった。あんな悔しいことはなかった、なにくそ、という気持ちでがんばったことがその後の活躍につながった。ある意味、野球人生の中での大きな試合だった、というような内容だった。 僕はすぐに日本経済新聞社に手紙を出した。 「いまそのグラウンドがどうなっているのか、観に来ませんか。」としたためた。 返事は意外に早かった。日本経済新聞を通じて、では、うかがいましょう、ということになり、豊田さんが、今は町民グラウンドになっている思い出の旧杵島炭鉱グラウンドを訪れることになったのだった。 本人からすれば思い出したくもないだろうが、その試合を見たという人や興味のある人たちに集まってもらって、当時の思い出話をしてもらうという企画になり、その日、大町町公民館には30人くらいの人が集まった。最高年齢はたしか80歳くらいだった。なんせ51年前の試合だ。平均年齢は確かに高かった。 そころが、その中に11歳の小さい子供も来ていた。 僕 :「豊田選手、知ってるの?」 子ども:「ゲームの中で西鉄ライオンズのOBとしてでてくるから知ってる。」 僕 :「ゲームの中でも強いの?」 子ども:「かなり強い。」 コンピュータゲームは、思いもかけないところで伝説を語り続けているのだった。 その懇談会の中で、その試合を見たという人の中で、こんな話をしてくれた人がいた。 「当時、私は高校生で野球をしていました。あの日、試合が終わった後、ライオンズの三原監督がどういうコメントをするのか、それを知りたくて、スタンドを乗り越えて、三原監督に近づきました。周りには新聞記者が何人かいました。ある新聞の記者が、「あんなエラーをする豊田を使い続けるのか。」という厳しい質問を監督に向けていました。当然でしょう。あれが原因で負けたわけですから。でも三原監督は、毅然として答えました。「使い続ける。彼はやがて日本一のショートになる男だから。」私は、その言葉をいまでも覚えています。その後、私は、少年野球の指導をするようになりましたが、少々のミスには動じない姿勢をあの言葉から学び、そのことを胸にずっとやってきています。豊田さんと同じように、私にとっても、あの試合は一生ものでした。」 三原監督がそういうふうに新聞記者に答えたのを豊田さん自身は知るよしもなかった。今回大町に来て初めて知った。 豊田さんと話をしていて、思った。 豊田さんは、史上最強の二番打者といわれたが、佐賀県もある意味では二番打者かもしれない。 トップバッターやクリーンアップほどの派手さはない。でも、二番打者が活躍するチームは、かつての西鉄ライオンズのように強いのだ。 豊田選手は、デビュー当時、「三振、エラー、本塁打。三拍子揃った大型新人」と評された。 いいじゃないか。佐賀県も、少々失敗しようとも、史上最強の二番打者をめざしたい。 ふるかわ 拝 |
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| 平成16年3月2日(火) 第041号 「伊万里市駒鳴」 先週末、伊万里市の駒鳴(こまなき)という松浦川中流の地域で捷水路(しょうすいろ)の竣工式典があった。 これまでこの地区は、大雨のごとに浸水の被害に遭って来た。 大雨が降ると、川の水が川の形どおり曲がり切れず、そのまままっすぐに流れ出してしまう。 この曲がりくねった松浦川をまっすぐにして、大雨のときにでも被害がでないようにしようというのがこの事業の目的。そのためにまっすぐの水路(いわば新しい川といってもいい)を作った。その水路のことをギョーカイ用語では捷水路と呼ぶらしい。水が早く流れるからだろうか。 この地区の浸水はもちろん、昨日今日始まったものではなかった。 式典当日、保利代議士が話されたところによれば、昭和19年にお父上の保利茂さんがはじめて衆議院議員選挙に立候補されたときの公約のひとつが松浦川の改修であったというからよほど昔から手を焼いていたと見える。 ところが、川の改修というのは、下流からやるのが基本である。そりゃそうだろう。 上流や中流だけ川の幅を広くしてみても、下流がそれを受け止めきれなければ下流が今度は氾濫してしまうのだから。 そういうこともあって、なかなかこの地区で事業を進めるのは難しく、事業が着工となったのは昭和49(1974)年になってからだった。そして、完成が平成16(2004)年。工事が始まってからでも30年かかったということになる。 式典では、まず、昭和23年の大水害で自分自身も被害にあい、ぜひともこの駒鳴地区から水害をなくしたいという思いから、いわば人生をかけてこのことに取り組んでこられた芳野文彦さんが経過報告された。 そしてその後の祝賀会では、先ほどの保利代議士をはじめ、来賓の方々がこの捷水路の事業について感じるところを述べられた。その一言一言がとても心に届く、しみじみとしたいいご挨拶だった。 帰りに捷水路の下流を走ってみた。伊万里市駒鳴駅と相知町佐里駅の間に鉄橋(中松浦鉄道橋)がかかっている。そこをよく見ると川の流れが広くなっていることに気づいた。上流で川の流れをよくすると、流量が増えて、今のままでの鉄橋では上流で増えた分を流しきれなくなってしまうし 、橋げたと橋げたの間隔が狭く低いために、洪水が橋げたにぶつかって、危なくなってしまう。そこで、鉄橋をいじらずに、その回りに、流れを誘導する仕組み(川のバイパス)を作ってあるというわけだ。 その少し下流では「アザメの瀬」という名の自然再生事業が行われている。 この地区は、もともとは遊水地だったのだが、その後耕作地となり、そのために年に1回の割合で洪水被害を受けていた。さまざまな治水対策が検討された中、地元との協議の結果、氾濫をある程度認めながら下流域の洪水流量を減らす、というやり方を実施することとなった。 つまり、その土地を掘り下げて湿地の機能再生をはかるという計画だ。この事業は、住民が中心になって、どういうふうに自然を復元するか考え、国と文字通り一緒になって事業を進めている、絵に描いたような住民参加型の事業になっている。 去年、このアザメの瀬の事業を見に行った。現地に行くときはいつも事業主体である国や県のお役人に説明してもらっている。その日もいつもと同じように「事業主体の方に説明をお願いします。」と言っておいた。夏の暑い日だったので、あまり迷惑を掛けたくないという思いもあった。 現地に行った。近所の方が数十人集まっていた。 びっくりしていたら、武雄河川工事事務所の島谷所長(当時)がこう言った。 「事業主体って言うと、この方々も入るんですよ。」 21世紀型ともいえるこのアザメの瀬の事業、この春には新しい段階を迎える。乞うご期待。 ふるかわ 拝 |