| 区画整理12月号 発行所:(社)日本土地区画整理協会 |
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| 「揺れた年」の瀬に思うこと 古川 康 |
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年の瀬となり、何かとこの一年を振り返る機会 が多くなったが、今年は何といっても「揺れた年」 であったとの感が強い。 〜被災地支援 求められるものは何か〜 新潟県中越地震の発生を受け、佐賀県はまず先遣隊を送った。大災害の時、何が必要なのか、何はいらないのか、それを届けるにはどうしたらいいのか。そういう情報を得るのは以外と難しい。なぜなら、自分と同じような視点で物事を見てくれる人は、そんなにいないからだ。 また、現場である市町村は忙しい。それなのに、県から国から、あちこちの部署から「あれはどうなっている」「これはどうした」、そういう資料や報告を求められる。冗談じゃない、情報が欲しければ現場に来い。そういう声を何度も聞いた。 だから僕は、何か大きな災害が発生した時は、情報収集のため、連絡要員を現場に派遣することにしている。 今回も新潟県に4名の職員を送った。こういうことを他の自治体もしてしまうと、それだけで現地は大変になる。ある意味での禁じ手と知りつつも、現地にいる彼らからの報告は的確だった。 そして数日後、「佐賀県民からの支援物資」と大書された胃腸薬やかぜ薬を中心とする支援物資と、医師、臨床心理士、看護師、保健師までのフルセットからなる医療関係チームが佐賀県庁を出た。 身内がかつて地震の被害者になったが、同じ物ばかり送られてきて困ったということを言っていた。例えば、即席ラーメンは送ってくれても、それを沸かすための水や燃料のことまでは、頭がなかなか回らないというのだ。 ある地域で地滑りによる大きな災害があった時、全国各地から支援物資が送られてきた。 一番困ったのは古着だったという。「折りたたまずにグチャグチャになっているのはまだいい方で、洗っていないものが結構あったんです」と当時の担当者が話していた。 困っているんだから、何でもいいじゃないか、ということではないだろう。憐れみとか情けとかではなく、こういう時だからこそ、被災者の方に敬意を払いながら支援させていただくという姿勢が必要なのだと思う。 先遣隊からは、こんな報告も届いた。「もうすぐ仮設住宅の建設が始まります。佐賀県は、有田焼など焼き物の産地。次は食器の支援の出番ではないかと思います。準備をお願いします」 〜中村先生ごぶじで〜 そういえば、今年は、県民の方からこんなお便りをいただいた。 「かなり前になりますが、自宅にあった佐賀百年史を見て、富士町北山小学校の中村富可雄教諭のことを初めて知り、たいへん感銘しました。中村教諭の仕事に対する責任ある行動は、佐賀県人としての誇りだと思います。…全国の皆さんにも知っていただくべきではないでしょうか。つきましては、この中村教諭の話を映画化できないのでしょうか」 そこで、さっそく中村先生のことについて調べてみた。 昭和38年1月26日、富士町北山小学校の中村富可雄先生は、豪雪の中を同校から約7キロも離れた地区の子ども14人を家庭まで無事に送り届けた後、行方不明となられた。それから4日後の30日、消防団、教職員、父兄らの必死の捜索の甲斐もなく、中村先生は遺体となって雪の中から発見された。 「佐賀百年史」には、先生の無事を祈り、「中村先生ごぶじで」などの言葉を黒板につづる子どもたちの写真が掲載されている。 お便りをいただいた県民の方には、次のような返事をしたためた。 「中村先生のように、責任ある行動をとり、子どもたちのために尽くされた方は、学校のみならず、地域にとっても誇りだと思います。…北山小学校では、毎年、命日に『偲ぶ会』を催し、その様子を地域の有線テレビや学校だより、学校のホームページで地域の方に知らせしたりしておられるようです。そのようなことをとおして、先生の存在を子どもたちや地域の方の記憶にとどめ、語り継がれるようにしているとのことでした。 とてもいい話ですよね。あなたの『中村先生のことを全国のみなさんに知っていただきたい』『映画化してほしい』との思いもよくわかります。 私としてもこの話について情報発信していきたいと思います。そして、その中でこの話を知った人が、テレビ化や映画化に取り組んでくれれば素晴らしいなと思います」 先生の遺徳をたたえて、北山小学校の中庭には中村先生の顕彰碑が建っている。 〜命を賭して守ったもの〜 この話をすると、こんな石碑もありますよ、と職員が教えてくれた。 確かに、県庁近くの赤松小学校の校門の脇には、運動場で遊ぶ子どもたちを見守るように、大きな石碑が建っている。 地元の佐賀市では、この石碑の由来を、子どもたちに次のように紹介している。 「この石碑は、ずっと前に赤松小学校の先生だった副田美代次先生と6人の子どもたちの石碑です。昭和18年(1943)10月9日、6年生約200人は福岡県の柳川に歩いて遠足に行っていました。その帰り、筑後川の渡し場(諸富町石塚)で、渡し舟が転覆し、約50人の子どもたちが川に投げ出されました。副田先生は、子どもたちを次々と助け上げたのですが、最後は力つきて、残る6人の子どもとともに亡くなりました。 このことを忘れないようにするためにこの石碑が建てられました。」 当時の児童は、「副田先生は、体格がとてもしっかりとした先生でした。舟が転覆したときには、大きな声を張り上げて、たくさんの子どもたちを助け上げてくれました。最後まで子どもたちのことを思い、力つきるまでがんばっていた先生の姿は忘れられません」と語っている。 この先生のご子息は、僕が知事に就任する少し前まで県庁に勤められ、県民の生命や財産を守る消防防災課長や消防学校長などの要職を歴任された。これも縁なのだろう。 〜まちをつくるということ〜 今回の地震をとおして、何を住民が求めているのかを考え、また、自らの命を賭して子どもたちを守ったお二人の先生に、心揺さぶられた。 中国の古典「潜夫論」には、「国は人を以て本となす。人安ければ国安し」と記されており、民が安んじることで国が安定すると説かれている。 また、「土木工学」のことを英語では、「CivilEngineering」といい、18世紀のヨーロッパに おいて市民生活を成り立たせる、まさに市民のための工学として成立したとされている。 これらの二つの言葉や痛ましい出来事から、住民を安らかにする技術こそが土木であり、ここにまちづくりの本旨があるように感じた …こんな年の瀬である。 |