| ニューリーダー(2004 October)掲載 発行所 はあと出版株式会社 |
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| 地方のリーダーが日本を変える 古川 康 佐賀県知事 | |
| ジャーナリスト 塩田 潮 | |
三位一体改革へ独自案提唱し全国から注目「輝く佐賀」に「変える」現場主義の推進力 九州一地味な県全国一派手な知事 九月八日、前三重県知事の北川正恭の呼びかけで第一回ローカルマニフェスト検証大会が早稲田大学で開催された。昨年、二二の都道県で知事選が実施されたが、選挙でマニフェスト(政策綱領)を掲げて当選した五人の知事が集まった。 大学教授らによる五知事の第三者評価の結果が発表された。トップは八八点の岩手県の増田寛也で、昨年四月に初当選した佐賀県の古川康が八六点で二位にランクされた。 「よく頑張っている。就任一年余で県庁の機構改革を実行した」 北川も評価している。 佐賀県は最近、ご当地出身のお笑い芸人のはなわ(塙尚輝)のヒット曲『佐賀県』で有名になったが、もともとは九州で一番、地味な県というイメージがある。人口は約八八万人で全国四二位、財政規模(二〇〇二年度の歳出決算額)は約四六一〇億円でビリから二番目、一〇万人当たりの大型小売店の数は全国最下位だ。九州・沖縄の八県の中で、経済規模は最小といっていい。 ところが、在任一年半の古川知事の奮闘が目立っている。「マニフェスト評価第二位」だけではない。 『朝日新聞』が七月五日付朝刊で都道府県ごとに実施した四七知事の支持率調査を発表した。支持六八煤A不支持六狽フ古川は、支持率が岩手県の増田、鳥取県の片山善博に次いで三位、不支持率はこの二人と並んで全国で一番低かった。 七月一四日、古川の名前が再び新聞に登場した。議論を呼んでいる政府の三位一体改革について独自案を打ち出したと報じられた。 三位一体改革は小泉純一郎首相の提唱で始まった。国と地方の財政・税のあり方を見直そうという試みである。国から地方へ流れる地方交付税交付金と国庫補助負担金の削減、地方への税源の移譲を三位一体で実現させると首相は唱えている。 政府はまず最初、昨年の「骨太の方針」(経済財政運営と構造改革に関する基本方針)で「二〇〇四年度から三年間で四兆円の補助金削減」を明示した。それに基づいて今年、一兆円分の補助金削減と約四二〇〇億円の税源移譲が行なわれた。 第二弾の今年は、六月に「〇五年度と〇六年度の二年間で三兆円規模の税源移譲を目指す」と「骨太の方針」に明記された。それに見合う補助金の削減案について、首相は地方自治体側に案づくりを指示する。ボールを投げられた全国知事会は八月一九日、激論の末、三兆二二八四億円の削減案を取りまとめ、ボールを首相側に投げ返した。 こんな展開となったが、古川はその一か月前、知事会の決定に先駆けて、独自の削減案を示して話題を呼んだ。内容は、介護給付費負担金や児童保護費等負担金などの二兆三〇〇〇億円を含め、総額三兆円の削減である。知事会案は義務教育費を削減対象に取り上げて議論を呼んだが、佐賀県案は社会保障費に踏み込んで注目された。 "保守王国の大乱戦"を制する 古川は昨年の四月に行なわれた知事選に無所属で出て初当選した。当時四四歳で、一か月後に徳島県で飯泉嘉門知事が誕生するまで「全国最年少知事」だった。 全国の知事の前身を分類すると、トップは自治省(現・総務省)出身で一四人、次が元国会議員で八人、その後に元市長が五人、通産省(現・経済産業省)出身と元県職員と民間出身の各四人が続く。古川は一四人の元自治官僚知事の一人である。 一九八二(昭和五七)年入省で、自治相秘書官、地域振興券推進室副室長などを歴任した。沖縄など四県の県庁に勤務した経験がある。 知事選出馬の話は長崎県の総務部長だったときに持ち上がった。出馬までの経緯を古川が語る。 「一〇年くらい前から、将来設計として郷里の佐賀県に帰りたいと思っていた。いずれ知事選に出て自分の思いを実現しようと考えていたが、去年の知事選では、最初は前任の井本知事がもう一期続けると思った。ところが、出ないと宣言した。だが、今回は無理だなと感じた。そこへ友達や先輩などから『後継選びが始まったけど、これで収まるという話にならない。この際、やってみないか』という話がきた」 三期一二年を務めた前任知事の井本勇は、期待感低下やマンネリ化を指摘され、引退を決めた。古川は思い切って出馬を決意する。 知事の仕事を意識したのは、三〇代初め、長野県庁の課長だったときと古川は振り返る。 「課長は知事と話をする。自分だったらどう考えるか。そんな気持ちで仕事をした」 知事選には新人ばかり六人が名乗りを上げた。古川は選挙が七〇日後に迫った去年の一月三一日に出馬を表明した。元農水省の局長、元佐賀県議会議長、元佐賀県教育長と古川の四人が自民党と民主党に推薦を求めた。だが、両党とも絞り切れず、自民党は「推薦」なしで四人全員を「支持」と異例の決定を下した。民主党も全員の推薦を見送り、自主投票となる。新聞は「保守王国混迷、乱戦」と書いた。 最年少候補の古川は、若さをセールスポイントに、「佐賀県を変えよう」と訴え、詳細なマニフェストを掲げて選挙に臨んだ。一六万票余を得て乱戦を制する。二位と一万三〇〇〇票の僅差だった。古川は一〇年来の志望だった郷里の知事の座を運よく一発で射止めた。 「電話で自分の名前を名乗ろう」 佐賀県庁の知事室に古川を訪問した。「勝因は」と聞いた。ノーネクタイで現われた古川はこう語った。 「変化への期待だったと思う。自治省の看板のお陰で行政的にはプロと見てくれた。しかも訴えている中身は『変える』です」 急に佐賀弁に変わる。 「期待しとるけんね。政見放送ば見たばってん。あんたのが一番よかったけん、頑張らんばよ」 身振りを交えながら街角で声をかけてくれた県民の言葉を口にした。 選挙で「変える」と言い続けた。何をどう変えるのか。古川は変革の対象として、真っ先に県庁職員の意識を問題にした。 「これまでは現場よりも霞が関を見て仕事をしてきた。もともと県庁という組織は、自治体なのか国の内部機関なのか、大いに議論がある。戦後、市町村は劇的に変化したけど、県庁は仕事に関係する中央省庁ごとの縦割り体質とか許認可体質が温存され、変わらずにきた。それを変えていかないと、県民から遊離した体制がずっと続いていく」 前知事は県庁職員の出身だった。 「そこだけはできんやったもんね。先輩の顔がちらつく。後輩が目に浮かぶ。大胆なことはなかなかできん部分がある。あんたはよそからきたっちゃけん、思い切りやってくれ」 バトンタッチのとき、井本は古川にこう呟いたと打ち明ける。 古川は過去に四県の県庁に勤務したが、初めて佐賀県庁に足を踏み入れたとき、空気の違いに驚いた。 「荘厳かつ重苦しい雰囲気だった。人がいない。ただ、仕事の仕方は非常に堅実で、全国初というのはやらない。だから、財政は比較的健全です。なんでも飛びつくダボハゼみたいな自治体経営はよくないという考え方は正しいが、極めて慎重運転。そんな感じの文化だった」 古川はこんなところから始めた。 「電話で自分の名前を名乗ろう」と職員に指示を発した。 選挙中、県庁に電話しても職員が不親切で、名前も言わない。当選したら真っ先に変えようと思った。特別に予算がかかるわけではない。制度の変更も要らない。県民から見てもわかりやすい。始めたら、あっという間に職員に浸透した。 もう一つ、「輝かしい佐賀を」と古川は唱える。何を目指すのか。 縦割りを横割りにする本部制導入 「佐賀が一番輝いていたのは幕末から維新期。時代の先駆者として明治政府に大きく貢献した。その時代は日本のトップを走っていたが、影が薄くなっていった。もう一度やってできないわけがない。時代に先駆けて挑戦するという風土をつくる。そうすれば輝くのでは」 といっても、具体策となると、名案は簡単には浮かんでこない。 古川は「トライアル発注」という制度を始めた。県内の中小企業が開発した製品を県の機関で積極的に活用して受注実績をつくり、以後の販路開拓に役立てようという試みだ。 就任時、地域経済の活性化と雇用改善が優先課題だった。その対策という側面もあったが、息長く「輝く佐賀を」というのが狙いである。 「過去に実績がないと、役所はなかなか使わない。そこを超えて実績がないものを試しに使う。ユーザーとしてクレームも付けられるし、フィードバックもできる。新時代を切り開く技術と製品を佐賀県で生み出したい、育てたいとの思いからです」 新制度は緒についたばかりだが、真似する県が現れた。徳島県が「お試し発注」と名付けて導入した。 知事となって取り組んだ変革への試みの中でもっとも大きかったのが機構改革であった。従来の部局制を廃止して今年の四月から本部制を敷いた。全国初の試みである。 これまでは総務部、企画部、厚生部、環境生活局、経済部、農政部という具合に、行政の分野別の縦割りの組織だった。それを総合戦略を担う統括本部、社会資本整備を推進する県土づくり本部、市町村の支援などを受け持つ経営支援本部などに再編した。「生活者や県民の視点で効率的に仕事をする組織に」と県民に説明している。縦割りから横割りにというのが改革のポイントだ。 たとえば、以前は保育所と青少年育成は厚生部児童青少年課、子育て支援は厚生部少子政策室、幼稚園は総務部総務学事課の担当だった。それを一括してくらし環境本部のこども課が担当する。下水道事務も合併浄化槽は環境生活局廃棄物対策課、農業集落排水は農政部農村整備課、漁業集落排水は水産林務局水産漁港課、公共下水道は土木部まちづくり推進課に分かれていたのを、県土づくり本部下水道課にまとめた。 「地方自治法の改正で可能になったので実行した。最大の目的は権限の移譲です。本部長にある程度、予算権も人事権も移譲した。人事当局が課長まで張りつけるが、副課長以下は、案は提示するけど、変えたければ変えて結構ということにした。予算も大枠を配って、あとは基本的にその中で自由にという形にした」 古川が説明する。 「当事者意識を持ってもらうのが狙い。自分たちで物事を解決する。制度がこうだ、金がない、前例がないというのは、できないと言い訳する際の便法です。そうではなく、県民にきちんと説明する」 スタートして半年足らずだが、効果はどうか。古川は強気である。 「表われつつある。合わせてフラット化も実施した。いちいち総務部にアイデアを上げていたが、自分たちで判断していいとした。一週間かかっていた仕事が三日で終わるようになった面がある」 同時に現場主義を導入した。 「一定の年齢になると、出先の人は出先、本庁は本庁ということで回していたが、今年から現地機関と本庁の交流人事を始めた。今後は県政の中で中核的な仕事を担ってもらう人にあえて現地機関に行ってもらう」 古川はこんな効果を期待する。 「佐賀県でいま何が起きているかを自分の目と耳で知り、自分の言葉で語る。何が問題かがわかる。こうすればうまくいくだろうというベンチャー的な発想も出てくる」 全国知事会で大反対を受けた案 先述したように、古川は新人知事ながら三位一体改革について独自の補助金削減案を提唱して全国レベルで注目を集めた。 独自案は今回が第二弾だ。〇三年一〇月に『プロポジション一〇・一六・・佐賀からの提案』と題して発表されたのが最初で、補助金見直し案だけでなく、補助金行政の実態と問題点の分析、税源移譲と影響額のシミュレーション付きの算出など、詳細な内容だった。今回はそれに続く『プロポジション2』である。 「去年の段階で来年も出さなければと考えていた。財務課の職員に指示し、何度か議論した。私たちはいつも『三位一体改革は国と地方の財源の分捕り合戦になってはいけない』と言ってきた。補助金の削減や一般財源化はどういうふうにやれば県民にプラスが大きいかに着目して、佐賀県でつくっていく。その結果、社会保障に踏み込むという他に例を見ない案になった」 古川が経緯を述べる。 「全国知事会で大反対を受けたが、自治体がサービス給付の内容を自分たちで決められるものは実際に給付を行なっている現場が決めるようにすべきだと私は思っている。それが無制限な給付増大の抑制策にもつながるから、対象にすると主張した」 住民にとってどんな変化が生まれるのか、住民の利益になるのかという視点がいつも根底にある。 三位一体改革に対する古川の基本的な姿勢は何か。 「税源は補助金の事業費ごとの移譲ではなく、政策レベルで移譲されないと意味がない。合わせて基準も緩和する。権限が移譲されないと、真の意味の自治が確立されない。それも一緒にやってもらわなければ。いまはあらゆることに国も県も市町村も絡んでいる。それぞれがやらなければならないことが山ほどある。全国知事会でも、なんでも県がやるべきだという知事とはちょっと考え方が違っていて、私は分業論者です」 三位一体改革は、首相から地方側に投げられたボールを、地方はなんとか投げ返すという展開になっている。返球されたボールを政府がどう打つかがこれからの最大の焦点である。古川の見方はこうだ。 「首相官邸に『地方が案をまとめてくればいい。まとまるわけがないから』と言った人がいるという話で、そうかと思った。小泉首相はなぜ地方側が補助金を一般財源化しろと言っているのかも、省庁がなぜこんなに抵抗するのかも、半分くらいしか理解できていないのでは……」 改革の成否は首相のリーダーシップにかかるところ大だが、三位一体改革が小泉政権の政策課題の中で優先度の高いテーマなのかどうかが気にかかる。古川は悲観的だ。 大雨の後の川の水位のように、選挙の前とか、予算が組めなくなったときとか、地元の首長や国会議員の突き上げを食ったときに瞬間的に優先度が上がる。この先、三年間、国政選挙がないといわれている。選挙の恐怖がない。そうなると、小泉政権の中で三位一体改革をホットなイシューに浮揚させていくのはなかなかむずかしいのではないかと思う。地方は足元を見られないようにまとまって行動していく必要がある」 人生最大の転機は"東大ボート部" 古川は一九五八(昭和三六)年七月に県北の唐津市で生まれた。 父は九州電力のサラリーマンで、用地交渉係が長かった。一三歳のとき、父親の勤務の関係で佐賀市に転校した。佐賀大附属中、鹿児島県のラサール高と受験の名門校を経て、順調に東大法学部に進んだ。 「ここまでの四六年の人生で最大の転機は」と尋ねた。「東大でボート部に入ったこと」という予想外の答えが返ってきた。 大学に入ったとき、古川は特別の目的も人生設計も持ち合わせていなかった。世話になった元学習院大野球部の叔父に相談したら、「東大なら野球部かボート部に入れ。社会に出た後、必ずよかったと思うことがある」と言われた。人には添ってみろ、馬には乗ってみろという気になり、アドバイスに従った。入った以上は四年間、続けようと思った。 大学はボート一色の生活だった。高校までガリ勉型だったが、一変した。勉強はしないから、試験はできない。フランス語の試験で、何かを聞こうとして振り返った前の席の学生から、「おまえじゃ、わからないな」と言われたことがあった。 古川は、おまえたちのような頭でっかちは駄目だ、と心の中で呟く。 「そのとき、中学や高校で『古川は勉強ばかりして、ばかじゃないか。あれくらいやれば、誰でもできるに決まっている。もっと大事なことかあるのに』と見ていた人がいただろうと思った。大学で落ちこぼれふうになって、初めてそういう目で物事を見ることに気づいた。それは非常に印象的でした」 卒業後、在学中の勉強不足を取り戻すために就職浪人して公務員試験を目指した。一年後、自治省に入省する。自治官僚の道を選んだ理由を古川はこう振り返った。 「大学で東京に出て、東京だけが栄えて他の地域が疲弊していくように見えた。これはいかんと感じた。人材が東京に集まるのがいけない。そう思う人間がずっと東京にいるのは論理矛盾です。自分が実践しなければと思った。将来は佐賀県に戻るという志を立てた。ボート部の先輩にそんな話をしたら、『おまえと同じことを言っている役所がある』と言って一冊の本を教えられた」 行政機構研究会著『自治省』(教育社新書)という省庁別のガイドブッグだった。読むと、自治省の役割や使命が古川の主張を口移しにしたように記述されている。入るのはここだと古川は確信した。 "知事の壁"に直面し第二の転機 念願の知事の座に就いて一年半近くが過ぎた。「知事の仕事は面白いですか」と聞いてみた。 「面白い。とくにいまの時代の知事が面白いと思う」 古川は時折、佐賀弁を交えながら機関銃のように言葉を放射する。的を射た表現を絶妙のタイミングで駆使する。 「セールスポイントは話し好き。それに好奇心旺盛なところ」 本人に自覚がある。「足りない部分は」と水を向けると、間髪を入れず、「我慢でしょう」という言葉が返ってきた。 「仕事の打ち合わせをやる。結論を聞きたい。待っていられない。昔は聞くよりも自分で説明することが多かった。いまは誰かに仕事を頼んで結果がどうなっているかをチェックするのが仕事。自分の思うようにいかないことはたくさんある。そこを我慢しなければいけない」 隠れた顔もある。知事のかたわら地元のNBCラジオ佐賀のパーソナリティーとなり、毎週土曜日の午後五時から「BREAK!」という番組を仕切っている。 中学の同級生に俳優の陣内孝則がいる。二人で月刊誌『文藝春秋』の名物グラビア頁の「同級生交歓」に出た(〇四年五月号)。 「陣内の初監督映画『ロッカーズ』は胸に沁みる作品だった。彼にはいつか、青春を過ごした佐賀を舞台に映画を撮ってほしいとココロひそかに願っている」 説明文にこんな文章を寄せている。筆も立つ。人脈も幅広い。 多彩な才の持ち主である。言語能力は一級品で、情報発信力は高い。 改革意欲も旺盛だ。時代を読んで先取りする先見力や構想力にも富んでいる。 現代の地方自治体の首長には民間企業のビジネスリーダーのような鋭い経営感覚と時代を切り開く経営手腕が求められる。そこは未知数だが、潜在的能力は大きいと見られる。 だが、こんな声もある。 「空回りしている印象がある。『佐賀を変える』と言いながら、決定打となる具体策が見つからず、苦慮しているのではないか」 自治省入省から二二年、「郷里の知事」を目指してまっしぐらに駆けてきた古川は、いま「知事の壁」に直面して、東大ボート部以来、二度目の大きな転機を迎えているのではないのか。それは政治リーダーの道を選んだ人間の宿命であろう。 孤独の決断の中から新しい自分を発見し、時代のステージを回転させていく。推進力はもちろんそのリーダーの中で熟成された人間性と歴史感、時代感覚などだが、エネルギーは古川自身が繰り返し口にする「現場」に蓄積されている。第二の転機を超えられるかどうかは、現場の玉石の中から「輝く佐賀」の玉を見つけ出すフットワークが最後は決め手になるのではないか。 (敬称略) |