「西日本文化」2月号掲載
 発行所:(財)西日本文化協会
「七草のころ」                           佐賀県知事 古川 康

1月7日。今年も佐賀市富士町で採れた七草が送られてきた。この季節になると思い出すことがある。6年前、僕がはじめて選挙に出たときのことだ。

選挙に出ることを決意したのが1月で、その月の24日には役所を辞めて佐賀に戻った。夫婦に子供が3人。長女が中学2年、次女が小学5年、そして三女が小学1年だった。選挙の告示日が3月27日で、あと2ヶ月しかないという状況での出馬になったのは自分で選択したから仕方なかったが、いざ戦いを始めてみたら、佐賀県は比較的コンパクトな県とはいえ回るのは大変だった。もちろん選挙などはじめての連れ合いと手分けして県内各地を回った。1月はあっという間に過ぎ、2月に入った。

そんなある日のこと、支持者のひとりから「富士町の『菖蒲ご膳』に行こう」と誘われた。富士町は佐賀市の北部。古湯温泉のあるところだ。そこの菖蒲という地域の女性たちが現地で採れる摘み草などを食材にした料理を月に一度出す会をしておられた。それが「菖蒲ご膳」だった。当時は食育という言葉はあまり聞かなかったが、そういうことに関心のある方を含め、数十人の方が「菖蒲ご膳」を味わうためにおいでになっていた。

場所は菖蒲の公民館だった。昭和の初期、でなければ少なくとも戦前の建築といってまちがいないだろうというくらい古い公民館。季節は2月。ただでさえ寒い季節なのに菖蒲の地は標高数百メートルのところにあった。火が熾してあるはずの公民館の中でも身体が芯から冷え、そんななかで僕は参加者のひとりひとりにご挨拶をして回った。

その日、連れ合いは別の地域を回っていて、車の都合だったと思うが、とにかく子供たちは僕が看ることになって、この菖蒲にも連れてきていた。
子供たちは何もすることがなく、古い公民館の外のグラウンドにあるブランコや大人の男たちがしているたき火に近づいたり遠ざかったりして時間をつぶしていた。僕はときどき外をのぞいたが、いつのぞいても子供たちは楽しげではなかった。

当然のことだろう。長女と次女は、この先どうなるのかといった漠然とした不安を抱え、地面にしゃがみこんでなにやら字を書いたり消したりしていた。何も理解していない三女は遠く雪をかぶった山々をめずらしげに眺めていた。その後ろ姿を見ているだけで僕はこみ上げてくるものがあった。
「ごめん、こんな思いをさせてごめん」。

そして6年が経った。幸い、僕は現在の仕事に就くことができ、長女はすでに大学に進学、次女は高校2年、三女は中1になった。多くのものが変わった。でも正月7日になると僕はいまでも毎年菖蒲の人たちが準備してくれた七草を食べている。そしてこの七草を食べるたびにあの日とあの頃のことを思い出すようにしている。舞台となった公民館は嘉瀬川ダム整備に伴い新しいものになった。でも僕の中ではあの古い公民館がいまもくっきりと思い出される。
僕にとっての「初心忘るべからず」が、あの公民館であり、この七草なのだ。