| 2004年7月25日(日)佐賀新聞掲載 | |
| 日曜討論 論論ワイド アバンセの現代教養講座「さがトレント゛セミナー」 杉谷館長と古川知事との対談 佐賀城本丸歴史館の魅力と活用法 |
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第10代佐賀藩主の鍋島直正が1838(天保9)年に建てた本丸御殿を現地に復元した「県立佐賀城本丸歴史館」が8月1日に開館する。 日本の近代化を先導した幕末・維新期の佐賀を紹介する施設で、「21世紀の佐賀を担う人づくり」や「観光イメージ発信」の拠点としても期待がかかる。 アバンセの現代教養講座「さがトレンドセミナー」で、館長の杉谷昭さんが歴史館の魅力と活用法を語った。聞き手となった古川康知事との対談を紹介する。 古川 八月一日にオープンする佐賀城本丸歴史館。本丸を天守閣と考えている人もいるようだ。本丸はどのような役割を持つ場所だったのか。 杉谷 お城といえば多くの人が天守閣を想像するが、お城の中核施設は実は天守閣ではなく本丸だった。藩主、つまり殿様の住まいで、主に政治を行う舞台だった。一般的に本丸は公式行事を行う表御殿、藩主が生活する中奥、大奥などからなる。復元した佐賀城本丸歴史館は一八三八(天保九)年のもので、本物は延べ床面積七千五百平方メートルほどだったが、今回は大奥の再建を断念したため、実際の三分の一程度の約二千五百平方メートルになった。江戸城の本丸の広さに比べると十五分の一ほどだが、江戸城に本丸は残っていない。このため本丸では全国最大規模となっている。 古川 殿様は本丸に住んでいたということだが、それぞれの部屋の役割は。 杉谷 本丸に入る際は、ほとんどがくぐった櫓(やぐら)門。鯱(しゃち)の門としておなじみで国の重要文化財(国宝)となっている。鯱の門の南側にあるのが御玄関と御式台。これは藩主や幕府からの使節など特別な人物が訪れた場合に使用した出入り口で、藩士が出入りすることは許されなかった。 施設では一番南側に位置する御座間で、ふだん藩主が生活していた。当時の建物が佐賀市南水ケ江の公民館としてそのまま使われており、今回それを再移築した。建物としては唯一、現存したものを活用、建物自体が貴重な資料といえる。御座間の西側にある御小書院が、日ごろ政務を執っていたところで、側近との会議も開いていた。御三家座は小城家、蓮池家、鹿島家の御三家を迎える場所だった。 御式台の西側が外御書院といい藩の公式行事を行っていた。復元した本丸歴史館全体で七百二十畳ほどの畳を敷けるが、そのうちの三百二十畳は外御書院になる。また外御書院は四つに仕切ることができ西側から一之間、二之間などと呼んだ。外御書院の南側に請役所的な棟があった。現在の行政組織でいうと庶務課、総務課といった機能を持ったところだが、今回は復元されていない。 古川 御料理間は台所のようなものだったのだろうか。 杉谷 台所ではなく、接待をする場所で、パーティーや宴会もできるようなところだった。 古川 建物は木造ということだが。 杉谷 できるだけ当時のままで復元しようと努力した。表玄関や表御殿を復元している彦根城は、表面上は木造に見えるが柱は鉄筋コンクリート。宮崎・佐土原城や兵庫・篠山城は木造だが規模が小さく、木造で、これだけの規模は全国的にも珍しい。外御書院だけではないが窓はすべて障子で、外とは雨戸で仕切ってある。台風や大雨の時などは大変だろうが、当時の様子を再現した。花見、月見なども活用できると考えている。 古川 建築法も昔の工法を駆使。くぎも当時のものを特注、天井や床下の木組みも当時を忠実に再現している。 杉谷 御座間は古い瓦を使っている。ほかの部分も当時のものが残っていればできるだけ活用。足りない部分だけを新たに作らせた。復元を担当した宮大工の心意気、こだわりはすごいものだった。 古川 調査で発見した敷石は建物に使わなかったようだが。 杉谷 天保期の敷石は保存するため、今回復元した本丸歴史館の基礎には使っていない。ただ見物客らが見ることもできるような仕掛けをしてある。 古川 当時の本丸を忠実に再建したというが、図面はあったのか。 杉谷 幸い天保期の指図が残っていた。歴史をひもとくと本丸に能舞台を建てる構想もあったが直正公が固辞したようだ。華美なものより、質素を心掛けた直正公の実直さの現れともいえる。 古川 佐賀城にも天守閣があったというが、天守閣の役割は何だったのか。 杉谷 一つは安土城のように城主の権力を表すシンボルだった。もう一つは物見やぐらの役割、さらに芸術品とみてもいい。お城と城下町は、当時の技術の集大成でもあった。その中でも天守閣が最たるものだった。佐賀城にも五層の天守閣があった。ただ二度、火事で焼けており、一七二六(享保十一)年になくなっている。 古川 再建しなかったのは財政問題なのか。 杉谷 反幕勢力を抑えるための幕府の統制で、新たに城を造る場合には、平城で石垣も築かない、一度焼けたら再建しないなどの政令を出していたためだと考えられている。 古川 歴史館の建設や本丸復元はどういう経緯で実現したのか。 杉谷 二十年ぐらい前にさかのぼる。歴史資料館は、幕末維新期に鍋島藩がどのように貢献したを検証しようと建設の話が持ち上がった。ただ、どこに造るかで綱引きがあり十年ぐらいかかった。佐賀市と武雄市が誘致合戦を繰り広げ、武雄市に宇宙科学館を建設することで、資料館は本丸跡地(旧赤松小)に決まった。 しかし、埋蔵文化財調査の過程で本丸御殿の敷石が出土。保存問題が浮上し建設反対の動きも起き、計画は一時暗礁に乗り上げたが、遺構を活用しながら一体的に整備することにした。歴史資料館としては手狭にはなったが建物自体が、歴史を物語る偉大なモニュメントであるという認識に立ち、許される範囲で展示や研究、イベントを展開していきたいと考えている。 また、どこのお城を見ても分かるように必ず回遊公園がついている。本丸歴史館も、周辺のお堀などを含め佐賀城公園としての整備が進んでおり、水、緑、歴史などを一体的にとらえ、観光の目玉に育てていきたい。 古川 もともと展示がメーンだったが、遺構を復元、保存することで建物自体に歴史的建造物としての見どころが加わり、展示品も含め丸ごと貴重な資料となるわけですね。ところで、本丸歴史館の活用法は、どのように考えているのか。 杉谷 展示物を観賞してもらうこともだが、ローマのコロシアムで、ギリシャ演劇が行われているように、この本丸歴史館でもいろいろなイベントを開きたい。 古川 県民に使ってもらう歴史館を目指していくということですね。 杉谷 その通り。すでに県民の皆さんから二百件近くの希望が出ている。例えば赤松小六年生からはイベントをやりたいので施設を貸してほしいという申し入れもきている。小中高の教師の皆さんには研究班を立ち上げてもらい、総合学習で生かしてもらう方法なども考えている。和楽の演奏や生け花の展示など、できるだけ県民から知恵を出してもらい、実現していきたい。大隈記念館や徴古館、県立博物館など県内外の文化施設との連携も図り、お互いがないものを補っていきたい。 古川 いろんな活用法があるが、展示物はどういうものがあるのか。 杉谷 十四、五年かけ三百点ほどを集めた。開館イベントでは高伝寺や徴古館の所蔵品も出展、幕末に造った蒸気機関車、汽船の模型なども披露したい。中心は幕末から明治維新にかけての資料だが、江戸時代全体に網をかけ、歴史資料館に行けば「江戸時代が分かる」というようにしたいし、系統立てた展示を心掛ける。 ---------------------------------------- =記者の目= 〈欠かせない柔軟な運営〉 幕末維新期に郷土が放った輝きを顕彰、先人たちの息吹を現代によみがえらせる「佐賀城本丸歴史館」がいよいよオープンする。器はできた。肝心なことは、どう運営していくかである。 天保期の本丸御殿の一部を忠実に再現した歴史館は、建物そのものが最大の展示物となる。さらに世界の最先端技術を導入した蒸気車などの模型展示や映像コーナーなど、当時の雰囲気を体感できる工夫が随所に施されている。 資料館に加え観光目玉としても期待がかかるが、この二つだけを強調しすぎた施設であってはならない。一方で「人づくりの拠点」「生涯学習の場」を、コンセプトでうたうように、常に県民が能動的に育てる施設であるべきだ。 そのためにも柔軟な運営が欠かせない。例えば外御書院の三百二十畳の畳に寝転ぶ機会をつくってもいい。子どもたちの目に雄大な天井がどう映るのか。壮大な夢が育つことは請け合いだ。 県民が活用しなければ、他県の客にも魅力は伝わらない。まずは地元の声を反映、子どもからお年寄りまで自然と足を運びたくなるような仕掛けを心掛けてほしい。 (澤野善文) |