古川 康の自治省時代から知事になる前までの執筆をご紹介します。
平成9年「地方財務1月号」
「地方の魅力をどう生かすか」 自治省税務局企画課課長補佐 古川 康

1. 東京ボンバーズを知っていますか

東京ボンバーズ  最近知り合った友達で、やはり公務員だが、平日休みを取って後楽園スケートセンターでスケートをしているのがいる。
「平日なんて人がいないんじゃない?」と思って聞いてみたが、おっとどっこいそうじゃないらしい。けっこう人がいるというのである。
どんな人たち?と畳みかければ彼曰く、「東京ボンバーズもいるよ。」でた、東京ローカルネタ。この単語に出会ったのは18年ぶりだ。
 佐賀県育ちの僕が東京に住みはじめた頃オドロキだったのは、東京に住んでいる人間はどうも出身地で人をランクづけしようとする癖があるな、ということだった。

どう考えればそういう思考になるのかほとんど理解できなかったが、どうも彼らの意識の中では東京は東京以外の日本の町、彼らの言葉で言うところの「地方」よりも優れていて、進んでいるところであるらしかった。不思議だったのは彼らがなぜそう思うのかであった。
それはどうも「東京には他の町にはないものがいろいろあるから」ということのようだが、じゃあ何がそういうことかというと、少年ジャンプしか読んだことのないような奴が「東京には本がたくさんある」からとか「ザ・ベストテン」が唯一の楽しみというような奴が「東京はテレビ局が多い」とかいう程度である。どうもはっきりしないのだ。
 そしてその「テレビ局が多い」かどうかというときの判断基準が当時の東京12チャンネルが見られるかどうかだった。
地方育ちの僕らの世代であれば東京12チャンネルは創刊されたばかりの少年ジャンプのヒット作「ハレンチ学園」を放映していた局というイメージではないだろうか。
そしてこの局でやっていた番組の一つが「ローラーゲーム」で、そこに出てくるスケート集団が東京ボンバーズだったのである。
 その東京ボンバーズを、高校時代鹿児島で勉強に明け暮れていた僕が知るはずもなく、大学に入学したての春、渋谷の焼き鳥屋で都立青山高校の卒業生グループと隣り合わせになったとき、その名前を初めて聞いた。
東京のことについては、知っているような気がしていたが、住まなきゃわからないことというのが確かにあるということを感じた最初のときじゃなかったかと思う。
 住まなきゃわからないことがあるというのは、これだけ情報通信手段が発達してもなお、存在する。
2. 地方に住む魅力を生かすとは
 東京12チャンネルに見られるように、、たしかに東京にしかないものというのは存在する。
しかし、東京にしかないものというのはよく見ると相当つまらないものばかりである。
それはなぜか。
 まず、東京にしかないパン屋とかケーキ屋の類。これはだいたいの場合、それに似たようなものは地方都市にもたくさんある。自分の目と舌を働かせればいろいろと見つけることができるのである。
東京にいると、ただ雑誌書いてあることを鵜呑みにしがちになる。言葉は悪いが情報の奴隷と化すのである。
 あとは東京にしかないと言ってても実は世界にはたくさんあるという例。バーニーズニューヨークが新宿にできても、それは伊勢丹のチェーンなわけで、やはりニューヨークで買いたいという方が普通だろう。東京オペラシティの53階にできたトラットリア・ベラビスタ・サバティーニにしても、ローマ本店と何から何まで一緒だというが、(そのこと自体がすでに十分に恥ずかしいが)なぜそこでマツタケのフェットチーネを、3,200円も出して食べるのか、よくわからないところではある。
フェラガモの定番ヴァラも、銀座で買うよりフィレンツェの本店で買いたいところだが、そうでなくても今ならホノルルのロイヤルハワイアンの中で買う方がおトクである。
 というぐあいに、東京だけしかないということの意味がなくなってきているのである。
 今の世の中、「日本ではここだけ」というのは、どうもセールスポイントにはならない。意味があるのは「地球上でここだけ」、「世界中で私だけ」というものなのだ。
 そういうオリジナリティのあるものは自分で切り開いて作っていくしかないのだけれど、東京にはほとんどそういう力はなくなってきている。だから、創造的な仕事をする必要のある人が都会を避けて住もうとしているのももっともである。
 だから地方に住む魅力を生かすということは、東京に限らずどこかのマネをすることではなく、自分のやりたいことを表現していくということなのではないだろうか。
 
3. だからどういうことかというと「選択」がキーワード
 だから何かやりたい人こそ、これから地方に住んで、住まなければわからないいろんなことを経験しながらそこで自分を表現することをやっていってほしい。通信手段が発達して、もう地域と世界がダイレクトにつながる時代だ。これまで東京は世界と地方の情報のタイムラグをうまく使ってビジネスをやってきた部分があるが、その部分については優位性がかなりなくなる。
 地方全体として見れば過疎化はとまらない。でも自分で何かをやろうと思う人にとって地方の魅力は増す。だからこれからは地方に軸足を置いた生活が魅力あるものととらえられる時が来る。
別の地方から出てきて首都圏に住んでいる諸君、悪いことはいわない、できるだけ早く引き上げなさい、とおすすめしてもよいだろう。
その際のキーワードは「選択」である。ちょっと話がそれるがお許しを。
 生まれ育った土地に住むか、そうでない土地に住むか、いろいろなケースがある。今、あなたはどこに住んでいますか。それが自分の生まれ育ったところではない場合、なぜあなたはそこにいるのだろうか。
 いろんな答えがあるだろう。
そこで第2問。あなたは、あなたの住んでいるところが好きですか。これにもいろいろな答えがある。それはどうでもよい。
さらに第3問。あなたはそこに住むのはいやですか。
ここでイヤだという答えが一定数あったとしよう。このことはなにを意味しているのだろうか
 本当にいやならたとえば仕事の関係でどこか自分の好きでないところに住まわされることになった場合、仕事を変えることだってできる。実際にそうやった人もいる。
でも「仕事なんてやめられるか、こんな不況の中で」と思う人がいたとしよう。その人は「だからどこに行けと言われても仕方なくいくんだ。」と思っているのだろう。
 ところが何べんもいうが、どうしても転勤がいやなら仕事をやめればいい。仕事をやめずに転勤を受け入れたということはその人は、仕事と転勤を比べて仕事を取るという選択をしたのだ。その結果、転勤を受け入れて今の場所にいるということなのだ。ということは自分で「仕方がなくてこうしている」と思っていることは実は本当に仕方がないのではなく、それよりも悪い選択肢を捨ててそのことを選んだということではないのか。
 親がいるからという理由でUターンしてくる人もそう。
「俺はホントは東京でもっと働きたかったのに。」などとうそぶくヤカラがときどきいる。そういう人も、本当にそうしたければそうしてたはずなのである。でも現実にはそうしなかった。親の面倒を見るという選択をしたのだ。
「そんなことをしたくてしたのじゃない」と反論されそうだが、それでもホントに親の面倒を見るよりも東京で仕事をしたければそうしていただろう。
自分が東京に残った場合、親がどうなるか、親戚はどういうだろうか。子供の学校は大丈夫だろうか。仕事は見つかるだろうか。何よりも妻は賛成してくれるだろうか。
そういういろんなことを考えて考えて結論を出したのではないのか
 そうやって出した結論というのは自分にとってできる最良の選択をしているはずなのだ。
 よく「東京に出てくる」とか「田舎に引っ込む」とかいうけど、あれは大間違い。東京の暮らしの方がよほど引っ込んでいる。大群衆の中に埋没して、そのなかで自分がどこにいるのか見いだすのは相当に難しい。その点、地方の方が、まだ、人間が主人公になっている部分がある。イベントをやったときの反応もリアルだし、新聞も書いてくれたりするし、掌(たなごごろ)に乗るサイズというか、そういう地域に住むことというのはとても人間的だと思う。
 「脳内革命」風に言えば、α-エンドルフィンが出るような経験を知っている人にこそ地方に住んでもらいたい。
 その昔、僕が長野県で暮らしていた頃、地域づくりフォーラムというイベントで「地域(ふるさと)への誓い」と題する宣言が採択された。
 イベントの中ではこの「地域への誓い」は、過疎の村にお嫁に来た奥さんとそのだんなさんとによってサイモン&ガーファンクルの「明日に架ける橋」のメロディに乗って読み上げられた。

地域への誓い

「地域の魅力をどう生かすか」は、いいかえればこういうことではないだろうか。
どうですか、この際。
「案ずるより住むが易し。」 ちょっとちがうか。