(2005年8月)

8月8日午前8時31分

ロスでの仕事もほぼ終わり。いよいよ帰国の途につく。昨日から今日にかけて衆院解散が決まり、次々に日本から連絡が入り、副知事とも今後の対応について協議して、とあわただしい夜になった。

いま泊まっているホテルはホテルニューオータニ。日系ホテルだが、従業員はスペイン語を話す人が多く、メキシコにいるみたいだ。

それもそのはずでロサンジェルス市の人口はスペイン語を話すヒスパニック系と呼ばれる人々が47%、その次が白人系で30%、いまのロサンジェルス市長もヒスパニックなのだ。

こちらが英語で話しかけても、従業員同士で話しているのはスペイン語だし道端で売っているホットドッグもハラペーニョという唐辛子が入っている。別にこれはロスに限ったわけではないかもしれないがイメージとしてはメキシカンスタイルだ。

ロス市の人口構成を続けると、ヒスパニック、白人に続くのがアフリカ系で11%、そしてアジア系は10%。

これだけ見ても、いかに人種や文化がさまざまだということがわかる。

そういえば、南加佐賀県人会百周年記念式典にはブッシュ大統領からのメッセージが届けられていた。そこにも「アメリカという国は人種の多様性のある国で、みなさんたちの存在がアメリカをよくするのだ」というようなことが書かれていて、多様性という言葉が使われていた。そのメッセージで印象的だったのは、しめくくりが「ローラと私は、この特別な式典に心からお祝いの気持ちをお伝えします」、というものだったことだ。「ローラと私は」かあ。

ということでちょこっと日記はこれでおしまい。お付き合いありがとうございます。

8月7日午後3時45分

南カリフォルニア(加)佐賀県人会百周年記念祝賀会における挨拶

南加佐賀県人会百周年おめでとうございます。

中西会長をはじめとする歴代の会長はじめ役職者の方々、そして会員のみなさん、また、会員の方の配偶者やご子息・ご息女など新しく佐賀県にご縁をいただいて県人会活動に理解とご支援をいただいている皆様に対し、心から感謝申し上げます。

今回は私のほか、佐賀県としては、国際課長はじめ合計4名、そして県議会からは篠塚周城前議長がお越しいただいております。議員には、南加の地と川副町が中西会長のご出身ということもあり、あくまでも個人の立場でご参加いただいているところ、この式典においては、佐賀県議会を代表してということでご挨拶をいただけますことに、私としても感謝申し上げます。

また、本日は、この式典のお祝いのため、佐賀県から130名を越える県民の方々が訪問団としてご参加いただいています。

指山会長はじめ団員の方々に対しても心から御礼申し上げます。

いまから百年前の1905年1月に南加佐賀県人会が26名の会員をもって発足しました。おりしも日露戦争中、旅順開城約なった正月の15日のことでありました。

また、このような日本の勃興を背景に、排日運動が台頭した時期でもあります。結果的にはその後迎えた「冬の時代」に備えての県人会結成となったのでした。

私は昨日、日系人博物館に行き、先人の方々の苦労の一端を偲ばせていただきました。とくに戦時中の厳しい時代のことを、ニューメキシコ州のローズバーグにおける境遇やワイオミングのハートマウンティンのキャンプの寒さを思いました。

また、GO FOR BROKE の記念碑も訪れました。私たち日本人の血が流れる先輩方が米国市民として戦いに身を投じられ、かの大戦において名誉を勝ち取られたことを誇りに思うとともに、身を挺して築き上げられた日本人、日系人に対する評価を私たちは大切にしなければならないとあらためて感じ、アメリカの市民であると同時に日本人であることが可能であることを感じました。

私はこうしたことについて宗教の果たした役割を思わざるを得ません。

佐賀市出身の泉田順城という僧侶が明治37年(1904年)当地に視察に来ました。そして、そのまま羅府(ロサンジェルス)にとどまり、羅府仏教会を興しました。

日本を離れればややもすれば日常の生活に追われ、宗教的な色彩の生活が薄らいでしまう中、ここ南加の地においては、仏教がある意味、佐賀県本土より根付き、仏教、それと県人会の二つがこの地での生活における貴重なものとなったものと考えます。



百周年の記念式典にあたり、私たちは、いま、こうしたこれまでの先人たちの功績に思いを馳せながらも、新しい次の百年に向けて歩みださなければならないと感じます。

移民という形でなく、留学や就職、結婚という新しいきっかけでこの地に根を下ろす人たちが今日もしっかりおられます。米国という国で学びたい、働いてみたいという気持ちを持つ佐賀県人子女も数多くいらっしゃいます。こうした、動きや願いをどう形にしていくべきか。

百年前に比べ、はるかに低くなった時間と国家の壁を越えて、私たちが次の百年に向けて行動をスタートさせるべき年としなければならないと強く思う次第です。



実は、百年前当時、北米の移住者から佐賀県に対して、送金が多くみられた、という記録があります。また、母県佐賀県を思う気持ちから災害の見舞い金を佐賀県知事あてに寄せていただいたという記録も残されております。当時、生活水準が大きく違ったとはいえ、苦しい移民の暮らしの中にあっても実家や母県のことを忘れず、こうした行動を起こしていただいたことをたいへんうれしく思います。

災害のない県といわれる佐賀県も、今年の三月、福岡県西方沖地震で被害がありましたが、南加佐賀県人会からお見舞い金をいただきました。

百年を経てなお、母県を思っていただく気持ちの尊さに改めて心を打たれました。

果たして百年後はどうなるでありましょうか。

今日の日を次の百年につなげていかなければならないと強く決意し、此処に集まられた皆様にご理解とご支援をお願いし、私からのご挨拶にさせていただきます。

8月6日午後10時30分

ロスは久しぶりだ。前に僕が来たときにちょうど湾岸戦争が始まった。10年ちょっとぶりということになる。
NYもそうだったがここでも再開発ラッシュ。よほど金が余っていると見えて、どこもかしこもコンドミニアムやホテルのリノベーション中だ。NYでは有名なそして歴史のあるホテルプラザもリノベーションの最中でチョコレートショップ以外は営業していない。
ロスもごたぶんにもれず、僕の泊まっているニューオータニのあるリトル東京もあちこちで再開発のプロジェクトが進行していた。
これってバブルっていうんだと思う。
こちらでも毎日日本の新聞やテレビ、インターネットで日本や佐賀県の状況は入ってきているが、わが国の景気は回復から拡大に向かいつつあるというくらい悪くないようだ。しかし、それがバブルのアメリカと沿海部だけが異様に発展してしまっているいびつな中国という、二つの国の経済に依存しているということのあやうさと思った。

アメリカはクレジットカード社会だという。今回、NYでは2ドルの地下鉄のきっぷを買うためにクレジットカードを使った。

過剰消費社会がもたらすものの行方、これまで以上に興味を持ってみつめていきたい。

8月6日午前10時46分

ロスに向かう機内だ。NYでの3日間は終わり。刺激的で愉しくて、それと何よりもNYに住む友人やわざわざフロリダから飛行機で22,000キロかけてやってきてくれた友人たちを含めて、みんなで話をし、あちこちを回ることができたのが何よりだった。

ミュージカル・マンマ・ミーアの歌唱力や演技力、バードランドやブルーノートでのベーシストの演奏、地下鉄の車内でアフリカ系の人数人が披露していたアカペラ・コーラス。そのほかMOMAやメトロポリタン美術館の(金にものをいわせた、という点はいなめないが)収蔵品の水準。どれをとっても世界最高のもの、一流のもの、で、文句なしに楽しむことができた。

エンパイア・ステート・ビルディングに上ることやジュリアード音楽院のキャンパスを歩くことなど、できなかったこともいくつかあるけど、すべてを経験しつすと次に来る理由がなくなる。

少しだけ思いを残しつつNYの旅を終えたい。

ささ、これからまた仕事、仕事。ロスに着くまでに一世の人たちへのインタビューを集めた「The 一世」という本を読んでおかなきゃ。

8月6日午前10時2分

NY3日目は美術館めぐり。メトロポリタン美術館とフリック・コレクションの二つを楽しんだ。僕のお目あてはフェルメールだったが、メトロで5枚、フリッツで3枚と一日にフェルメールの絵を8枚楽しむという贅沢をやってのけた。もちろんこのうちの3枚はこれまでにも観たことはあったのだがやはりホームで見ると落ち着き方が違うし、その隣に何が飾ってあるのか、というのもある。

とくに今回、いちばん印象に残ったのは「兵士と笑う女」という作品だった。戦いに向かうのか、かえってきたのか、兵士姿の男が娘と話をしている絵で、フェルメール的な光と影のつけかたもさることながら、娘の表情が豊かで飽きない。

これがポストカードに印刷されてしまうと、そこが見えなくなってしまい、そこが残念。フェルメールの絵を見たしるしのようなものとしてポストカードはよく買うのだが、やはり本物には遠く及ばない。

今回の旅で感じたのはきセキュリティの厳しさだ。自由の女神、UN本部もそうだったし、メトロポリタンもセキュリティチェックが厳しかった。この国のシンボルとなっているようなところはみんなこうしているようだった。

飛行機に乗るのも毎回、大騒動。やがては水着に着替えないと乗れなくなるんじゃないだろうか。

預かり荷物には鍵をしてはいけないというルールがあるということは前にも書いた。

でも抜け穴があるらしい。航空会社か旅行代理店かは知らないが、当局公認の使い捨て的な鍵をお客様にプレゼントしているという。

その鍵は、当局が合鍵を持っているらしい、ということだった。

やがて、アメリカ合衆国公認鍵というのが売りに出されて、それでなければ米国の航空当局が勝手に開けますよ、ということになるのではないか。

8月5日午後8時30分

昨日の午後は自由の女神、そしてグランドゼロ。グラウンド・ゼロは、テロで破壊されたワールドトレードセンターの跡地のことだ。
周囲に柵がめぐらされていたし、回りのビルでは改修工事が進められている。9.11は歴史上の出来事ではなく、つい先日の経験なのだった。僕たちをここに案内してくれたのは僕の中学の同級生。彼女はこのビル(「ワートレ」というみたい)で働いていて9.11のときに命からがら助かっただけに、それ以来、ここに来ることができなかったという。

僕たちと一緒に何年かぶりにここを訪れた彼女は「ああ、こうなったんだあ」とつぶやいていた。

回りには数十階建てのビルが林立している。
「ワートレ」がどれだけの建物だったのかぴんと来ない。
彼女はこう語る。「ワートレはいまこの辺で建っているビルの二倍くらいの高さがあるようなビルだったの。このへんってビルばかりで方向感覚がなくなるんだけど、そういうときには上を見るとワートレが見える。あそこにワートレが見えるから今私たちはこのへんにいるのよね」というような会話をよくしていたわ。まさにランドマーク、まさにシンボルだったと思う」。


自由の女神を見て、夜はステーキを食べ、ブルーノートに行き、という典型的なNY旅行の一日だった。夜はフロリダからもうひとり、同級生が合流。わざわざ僕たちと会うために飛行機で3時間かけてやってきてくれた。
彼女の夫は資産運用のコンサルタントのような仕事をしていてつい先日までワシントンDCで仕事していたのだが、仕事はどこでもできるのでフロリダに住むことにしたのだという。

8月5日午後1時40分

午前中はMOMAのショップでのお買い物とメトロポリタン美術館へ。僕はフェルメールの絵がすきで、彼の全作品を見るのが夢。メトロポリタンには5点もあるし、その近くのフリッツコレクションにも3点ある。NYはフェルメールの宝庫だ。もちろん日本で観たことのあるものもあるが、また本家本元で観れば風情もちがうというものだろう。

メトロポリタン美術館にはちゃんと5点並んでいた。フェルメールは17世紀のオランダの画家なのだが、その当時にしては不思議な光の使い方と人物に物語性を持たせる点で他の画家と一線を画していると思う。

フェルメールの絵を観ていると、いつも一枚一枚の中に込められた物語をいろいろ空想してしまう。

ちなみにメトロポリタン美術館もセキュリティチェックがある。
自由の女神、国連本部、そしてメトロポリタン。もちろん空港における執拗なまでの検査。この国の状況をいやでも思わされる。
 
旅行の同行者の一人が自由の女神のある島にいくフェリーの検査でひっかかった。
理由は、薬だった。彼の持っている粉薬が麻薬ではないかと思われたようだった。さあ、どうする?
彼は準備周到だった。こういうこともあろうかと、日本から医者が英語で書いた「この薬は何の病気のためのもので一日にどれだけの分が必要です。私は彼に何日分準備しました。」という内容の診断書。医者のハンコが押してあった。

これが功を奏した。係官はこれをじっと読み、パスポートを念入りに見て、オッケーを出した。
持病のある方、ご参考にしてください。

8月4日午後5時55分

午前中はUN本部に行った。あらかじめ申し込んでおくと日本語によるガイドツアーをやってくれ、約1時間、中を説明してくれる。

中での安全保障理事会の会議が行われる部屋も見てきたが、常任理事国と常任ではない理事国は中央の馬蹄形のテーブルのメンバー。その他の国々はその回りの小さい椅子に座るだけと明らかに差がある。国連の分担金を世界で二番目に(ちょっと遅れながらではあるものの)たくさん払っておきながら、隅っこの椅子にしか座れない、(今はたまたま日本は理事国になっているが保証されているわけではない)というのは外交官にとっては屈辱なのだろうなあと思った。

国連本部には郵便局がある。ここでしか使えない切手を使って手紙を出すことができる。この切手は国連の外では無価値なので国連に行く時にはぜひ住所録を持っていくほうがいいと思う。

今日のお昼は「アジアテ」マンダリンオリエンタルホテルの中にあるアジア料理の店で最近評判と聞いて行ってみた。
率直に評価できるすばらしい料理だった。
昨日のMEGUはあれはあれでいまのNYの象徴だと思うが、やや気を衒った点は否めない。その点、アジアテは真っ向勝負。料理の水準や盛り付け、店内の雰囲気ともに際立っていたし、値段も安くはないものの最後のデザート、とくにチョコレートムースのできばえを考えれば高くはない。おどろいたのは日本のビールがあると聞いてでてきたのが「常陸野」というビール。茨城県の地ビールが日本のビールで唯一出ているのだ。昨日のMEGUのざる豆腐といい、地方の企業が直接外国の店や企業と取引するということが可能な時代になっているのではないだろうか。

8月4日午前7時55分

昨日は夕食はMEGU(MEGUのサイトは音が出ます)というNYで流行りの日本、というかアジアンフードのレストランに行った。店内に氷のブッダがあるのでも有名。その夜はミュージカルに行くのでその前の軽い腹ごしらえ。ぜひトライしてみたかったのが、この店の前菜のメニューにあるというざる豆腐だった。前にも週刊yasushi第112号で書いたことがあると思うのだが、唐津のざる豆腐がNYのこの店に出ているというのだ。ぜひともそのことを確認してみたかった。

本当にあった。ざる豆腐の大きいのをケーキみたいに6分の1くらいにカットして出してくれる。お好みでしょうゆやねぎ、しょうが、塩、ライムをつけて。しめて15ドル。もちろん高いし、そもそも豆腐に旅をさせるのだがら大変だろうと思うが、それでもきちんとメニューとして成立していた。

MEGU自体はおしゃれな米国人が大事な人と食事をするときに使えればよろこぶだろうなという感じでうまく作られている。
さすがジュリアナをプロデュースした人(日本人)がやっているだけのことはある。

その後マンマ・ミーアを観た。とにかく、愉しい。ストーリーはけっこう単純だけど、言葉に自信がなければ事前にあらすじをネットで押さえておくと安心できると思う。そしてしたほうがいいのが、あと2つある。

ひとつは、音楽が全編アバのものだから、最低ダンシング・クイーンぐらいだけでも聴きこなしておくことだ。これをみんなでいっしょに歌えると愉しい。

もうひとつはNYに向かう機内でぐっすり寝ておくこと。ミュージカルに行ったのがNY到着初日だったが、僕はもう身体がブラジルで調整できているけど友人たちはNYに着いたばかりで身体がまだ日本のまま。一日ずっと起きているのは20数時間近く起きることになるのできつい人もいたようだ。

とにかく文句なしに愉しいミュージカル。出演者の技量が高いし、音楽もいいので飽きない。僕らのように70年代の音楽で育った世代にはとくにうれしい作品だった。

 

8月3日午後5時

NYは出張ではない。今回の出張はブラジルと米国の南カリフォルニアのそれぞれの佐賀県人会の祝賀行事への参加が目的だ。
ブラジルの行事が終わるのが8月2日で、次のカリフォルニアの行事が8月6日。どうしてもその間、数日空いてしまう。ということでその間を休みにして出張から切り離してしまい、この間の経費は自費ということで、それならばと友人が数人この時期にNY行きを計画していたのにあわせて僕も参加することにしたのだ。

NYでは仕事らしい仕事はしていないのはそういう事情による。もちろん、毎日携帯やメールでいろんな相談や伺いは来るのでそれに対する判断はやっているけど。

8月3日正午 

カナダと米国は隣りどおし。カナダとしては隣がああいう人だから、いいようなよくないような、だろう。
おもしろいのはトロントはカナダだが、空港に到着すると、米国へのトランジット専用のルートがあって、そこを歩いていくと、米国の入国審査が行われる。つまりは、カナダにいながら米国の入国審査を受けているからトロントからNYに入るときには入国審査はない。ラガーディア空港でも国際線ではなく、国内線として入ってくる。

成田空港には韓国に行く乗客のための事前入国審査というデスクが設けられていた。ここで手続きを済ませておくと韓国入国がとてもスムーズに行くらしい。
 
記憶が違っているかもしれないが、シンガポールにある、マレーシアに向かう鉄道の駅についても似たようなことを聞いたような気がるする。駅自体はもちろんがシンガポールに所在しているわけだが、マレーシアが主権を行使しているのか、国際鉄道に乗るときにはそこでマレーシアの入国審査が行われるという。

ということで無事にNY入り。こちらはギンギンの夏だった。

8月2日午後11時59分(機内にて) 

サンパウロでの仕事を追え、2日の21:30発のエア・カナダでサンパウロを出発した。
もともとは23:59発のヴァリグ・ブラジル航空の予定だったが、急にフライトスケジュールが変更になったのだ。
23:59発。楽しみにしていたのになあ。
なんでこんな中途半端な時刻になっているかというと0:00だと昼か夜かわからないかららしい。
ところがそのフライトが大幅に変更になったため、カナダのトロントを経由してNYに入ることにしたのだ。

新加入のブラジル人選手のおかげでサガンも首位の京都に勝ったし、聞いてみれば、佐賀県人会メンバーの生野さんはブラジルでもっとも人気のあるクラブ、コリンチャンスの評議員に日系人としてはじめて就任しておられるという、「ぜひサッカーで佐賀県とブラジルとの橋渡しをさせてください」。こころづよい言葉をいただいた。

ともあれ、4日間過ごしたブラジルに別れを告げた。空港までは「アイルトン・セナ通り」を通っていった。

8月2日午後2時

昨日、僕らを案内してくれた日系の女性から、「ネットで日記書いておられるんですね。読みましたよ」と言われた。とてもとてもうれしい。インターネットって怖いところもあるけれど便利で不思議なものだと思う。
ネットの便利さをもうひとつ紹介すると、サンパウロで出されている日系の方のための新聞のひとつ(ニッケイ新聞)に佐賀県人会の様子が載った。写真がなくて記事だけだが、これでだいたい様子はつかめると思う。

http://www.nikkeyshimbun.com.br/

今日日程が変更になって夕方予定していたサンパウロ洲知事訪問がキャンセルになった。知事がだめ、副知事ならということで調整していたが、今日になって副知事もだめになった。急遽ブラジリアに行かなければならなくなったからだという。実はブラジルは、ルーラ大統領およびその閣僚の疑惑問題で相当もめていて、今日も閣僚を何人もくびにすると大統領が国民に発表しているくらいだ。

ブラジルは貧富の差が激しい。だから、政治もいろんな「階層」を代表する人が議員や首長になるという、たとえば昨日お世話になった峰さんの車の運転手さんだった人がいま市会議員になっているという。それはそういう職業の方たちを代表しているのだという。
また、ブラジルには、市町村長のうち、文字の読み書きのできない人が3人いるという。これはこれで識字率が80数パーセントしかないという現実の下で、字を読み書きできない層の代表者が地域のトップになっているということの現われだというのだ。

ブラジルは魅力のあるところだ。問題も課題も多いのに街はにぎやかだし、でもなんか落ち着くし、なのに夢がある。

何よりもふるさとに思いを馳せながら生きている方たちがいる。自分たちもがんばらないとなあ。あたらめて思った。

これで公務前半は終わり。3日間休みに入る。

8月2日午前5時2分

昨日は、前田さん(伊万里出身)と峰さん(有田出身)という二人の成功者の方のお宅や農場を訪問した。前田さんはイツヴェラーヴァ市というところに大邸宅を構えてお住まい。なんせ前田家の持つ農場の面積は佐賀県全体の農地面積よりも広いというのだからおどろく。

前田家訪問に際しては僕たちを前田家の一族や前田家の方々、さらには市長や国会議員の方までが迎えてくれた。

警察の先導がついたが、これは契約すればやってくれるのだという。よく、外国の方が佐賀県との交流で来日されるときに先方から「なぜ先導できないのか」と言われる。それはこういう、契約すれば先導してもらえるというお国事情もあるのだな。 

料理は日本料理プラス豚の丸焼きやフェイジョアーダというブラジルの豆煮込み。

参加者はみんなおいしそうにどの料理にも手が伸びていた。

日系社会とはいえ、二世以下になると日本語が使えない人が多い。さらには日本語がしゃべれても読めないという人いる。もちろんその分、ポルトガル語はネイティブということなのだが。

でも、日本料理とブラジル料理の両方をおいしそうに食べる人たちの姿をみていると新しかい時代の担い手が生まれてきているのを感じた。

峰さんの工場や農場もとてつもなかった。工場は綿、農場ではさとうきびや牛、馬などいろいろやっておられるのだが、いずれもブラジルサイズ。

峰さんはときどき日本に帰って同級生に会うそうだが、あまり自分の仕事の話はしないのだというう。

なぜですか?とお聞きしたら「ほらにしか聞こえないから」。

見ないとそう思うだろうなあ。

大規模農業というのはまさに知恵と力の集大成。気候の変化や政治的な圧力、京都議定書にみられる環境保護の動き、そういうものをにらみながら、為替相場の動向と予測の下に数年先まで契約を入れていく。

綿は毎年国際相場で相当値段が下がるという。だから、今年の情勢だけで値決めをせず、先の予約をドルベースで取るということもやっておられるようで、世界をまたにかける経営者の姿そのものだった。

やはり気候変化はブラジルでも起きているという。綿の種まきの時期も変化してきているというのだ。

「具体的に何月何日に蒔くかはだれがどうやって判断するのですか?」

答えはこうだった。「高島暦で大安を調べてその日にしています」。

最新農業は意外に人間的でもあった。

※フェイジョアーダ

峰さんという佐賀県出身の方の農場での風景です。
木彫りの肖像画をいただきました。また、そこには近郊の日系人の方もお越しで、なごやかなひとときでした。
大きな農場とゲストハウスで、敷地の中に大きな池が作ってあり、そこで魚が釣れていました。
なんせブラジル、ケタが違います。

7月31日午後6時40分

記念式典が終わった。

10:00に始まり、アトラクションが終わったのが午後5時すぎ。ほぼ丸一日だ。最後まで残ったが、司会の方から「いろんな県人会の司会をやるが知事が最後までいたのははじめて」とおどろかれた。

このために来ているからなあ。

おもしろかったのは、祝賀会のときの乾杯。

こちらに長く住んでおられる大先輩のご発声だったが、「佐賀県のために乾杯」。するとみんなが カンパーイ。
ひきつづきご当人が「県人会のために乾杯」するとみんながカンパーイ。
最後もうひとつ「なんとか(よく聞き取れず)のためにばんざーい」。するとみんながグラスをかかげてバンザーイ。

と万歳三唱でなく、乾杯三唱があるのだ。しかも、乾杯だけでなく万歳も交えて。

なぜこうなるのかというともともと現地においては日本語とポルトガル語の両方で乾杯するので二回は乾杯するのが普通で、それが変遷してこういう形になりつつあるらしい。
そういえば、東大ボート部の乾杯も「ウォー三唱」と言ってやはり三回「ウォー」と野蛮に声を出すというやつだったな。


明日は農場見学。

7月31日午前4時15分

なんとか一日目が終わった。昨日、サンパウロは秋だと書いたが、まちがいだった。あれを書いた時刻においては、たしかに秋の様相だったが、お昼過ぎには夏になり、そして寝ることにはずいぶん寒くなり、今朝は寒さで目がさめた。「一日のうちに春夏秋冬があるのですね」といったら、「一日のうちの変化も大きいですがこの国は南北にも大きいので今日という日をとってもたとえば赤道に近いところではとても暑いし、南にいけばずいぶん寒くなる。「いまブラジルの気候はどうですか」と聞かれても同時に春夏秋冬があるもので答えようがないんですよ」という返事が返ってきた。

ブラジルにある佐賀県人会の井上会長はじめ関係者の方にお世話になりながら、移住先でなくなられた先没者の慰霊碑に献花したり移民資料館で一世の方の苦労話を自分の体験談としていろいろお話を聞かせていただいた。

なかでも、勝ち組事件の話は印象的だった。有名なことではあるが、日本が戦争に負けたことを認めない人たちと負けたのだと考える人たちとの間の抗争のことだ。テレビもネットもなかった時代ならではのことだが、正しい情報が入らないことがもたらす悲劇という意味では今の社会も決して無縁ではない。

7月30日午前10時20分

サンパウロに着きました。

ブラジルに移住した佐賀県人会の50周年記念式典に参加するために、県民訪問団と一緒にブラジル・サンパウロに来ています。いまホテルに着いて荷物を降ろし、着替えているところです。
ホテルの名前はブルートゥリー・パウリスタ。
パウリスタというのはサンパウロの人って意味。リオの人のことを「キャリオカ」ていうのと同じ。
ブルー・トゥリーはなんだろう。

ホテルに着いた瞬間にわかりました。

迎えに出てくれていた経営者が日本人だったのです。

その方の名が「青木さん」でした。

こちらは秋です。みんな長袖です。

サンパウロに到着するまでいろいろ感じたことがありましたがそれは週刊yasushiで書くことにしてとりあえず。




※参考
BLUE TREE TOWERS PAULISTA

在サンパウロ日本国総領事館サイト
http://www.sp.br.emb-japan.go.jp/nihongo/index.htm

パウリスタ大通り