![]() 古川 康の自治省時代から知事になる前までの執筆をご紹介します。 |
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| 長野県政タイムス 平成4年4月15日(水曜日)掲載 | |
| 特別寄稿「はみだしきれなかった男(上)」 | |
| 自治省情報管理管室 課長補佐 (前長野県地方課長) 古川 康 | |
「古川君、君の行くところはだねえ、北でもなければ南でもない、かといって東でもなければ西でもない、そんなところだよ」 昭和62年の3月初め、当時の上司であった吉原孝司自治省振興課長(現国土庁防災局審議官)は、僕にそんな言い方をした。そのとき僕はてっきり「ははぁこれは山梨ということか。フムフム、山梨ね、ちょっと小さいし、東京から近くてつまらなそうだけど、まあ、いいか。今をときめくサンリオの辻信太郎氏だって元はといえば山梨県庁の職員。オモシロイ人がいるかもしれない」と思い込んだ。 概して僕は、思い込みが過ぎるきらいがある。あまりの思い込みの度が過ぎて、僕はその3日後、大崎にあるサンリオの本社を見学に行ったくらいなのだ。(行ったことのない人はぜひ行ってみるとよい。会社全体が「ハローキティ」や「けろけろけろっぴ」している。むかしはボーナスをサイコロの目で決めたというハナシがよくわかる。ちなみに社長室のことは「王様の部屋」という。) だから、サンリオの会社見学に行った4日後、課長の机のところで打ち合わせをしていたとき、課長がふと思いついたように赤鉛筆で「長野県税務課税務考査幹」と太々紙に書き、僕に見せてくれたのも、何のことやら僕にはさっぱりわからなかった。ぽかんとしていると課長はもう一度紙を取り、横に「ガンバレ」と書いて再び僕に渡してくれ、ここにいたって僕も、事の次第がようやくわかってきたのだった。 「あれっ?長野県?なるほど『北でもなければ南でもない、かといって東でもなければ西でもない』、まさにそのとおりだな。そうか、長野県か。なーんだ、だったらこの前、出張に行って損したな。どうせなら別の県に出張したらよかった」こんなアホらしいことをぐるぐる考えながら僕は課長にお礼をいい、席に戻った。この時期、省内は県庁内と同じく話は人事でもちきりになる。「古川、長野へ」の報はたちまちにして省内をかけめぐった。 「あんな理屈を言う県に古川なんかをやって大丈夫か」、「いや、理論派の人間より、ああいうお調子者の方がかえって目先が変わっていいかもしれない」 「昼メシを選んでるんじゃないんだ、目先とかそういう問題じゃないだろう」、「でも、じゃ、目先以外のどこにあいつの取り得がある」「ある種の動物に、外敵に会うと、パッパッと相手に砂をかけて逃げていくやつがいる。いわば、彼はそういうタイプだ。目くらまし戦法だ。何というか、彼はまだホモ・サピエンスとしての風格に欠ける部分がある」「でも一点だけ理解できるところがあるよ。彼は佐賀県唐津出身、海辺育ちだ。しかも自治省に入って最初に沖縄に2年いた。でありながらあいつはほとんど泳げない。長野県に行けば泳がずにすむという点だけは評価してもいいのではないか」 などとなんせみんな、かまびすしい。他の県と違って、自治省の人間が長野県に行っている数は少なく、かつ、何かと注目される県だけに、どうしても脚光というか妙な心配を浴びている。 そんな周囲の心配をよそに「よし、長野県といえば何といっても信濃毎日新聞と「信濃の国」だ。もう、仕事はやめだ。僕は今日から長野県人として生きる」と僕は決意した。 繰り返しになるが、僕は概して思い込みが激しい性格である。すぐに信濃毎日新聞東京支社に電話を入れ、「4月から長野で暮らすことになったので3月31日まで信毎を購読したい」と告げた。 「長野県」と宣告された、その数時間後にはすでに信濃毎日新聞を信毎などと長野県人っぽく叫ぶ、この反応がいかにも僕らしく嬉しく、(日本人は略称が好きだから、必ずこういう呼び方になると僕は踏んでいたのだ。)ところが何事も中途半端はいけない。「トーホクシンバンですかチューナンシンバンですか」と聞きかえされてしまったのである。内心うろたえながらも「えーっと、どっちがいいかなあ」などとしばし悩んでいるフリをしていると「お住まいはどこですか」と向こうが訊ねてくる。 「長野市です」「じゃ東北信版ですね」ということで信毎は翌日から手元に届けられることになった。当時は売上税反対、JR分割民営化が大きなニュースで、とくに長野県はJRが東日本、東海、西日本と三分割されるということを読み、「うーむまるでポーランドのようではないか」と思ったことを憶えている。 「信濃の国」の方は歌詞は『長野県の歴史』(山川出版社)にあったので、テープを入手して通勤途上、それまで聴いていたサザンオールスターズの「Kamakura」を「信濃の国」に変えて聴いた。「一番、二番だけじゃダメですよ。知ったかぶりをすると『じゃ四番を歌ってみろ』といわれますからねえ全部覚えていったほうがいいです」と長野県出身の池田憲治君がアドバイスをくれる。「君は全部知っているのか」と聞くと「私ですか、私は一番しか知りません。いいんです、私は長野県出身ですから。全部知らなくてもおこる人はいません」という答え。 とこうして昭和62年3月31日、国鉄最後の日の13時50分、僕は長野県に降りたったのだった。 「はみだしきれなかった男(下)」平成4年4月25日「長野県政タイムス」掲載へ続く |