古川 康の自治省時代から知事になる前までの執筆をご紹介します。
地域づくり2月号 1994年2月(10)
杠 玄照のからくち自治時評
地方分権論議は、実は地方に迷惑なのだろうか、とでもかんぐってしまうような、地方側の「静けさ」について

最近の地方分権論議をめぐって
最近、地方分権論議がかまびすしい。政権が代わって以来、突然クローズアップされてきた。そして政治の場では、いわゆる新党グループは、こぞって内政の柱として地方分権の推進を掲げているし、行革審でも議論になり、また日本青年会議所(JC)等の民間グループでも勉強を始めている。まさに地方分権は、まさに国民的テーマになったといってよい。

しかし、政党にしても、行革審にしてもJCにしても結局、「東京」でも議論である。もちろん、それぞれ地方組織の意向なり、地方の実情についてのヒアリングなどを踏まえたものであるとは思うのだけど、実際に発言をしている人は、みんな東京の人間である。つまり、地方分権の受け皿というか、もっといえば主人公である地方公共団体や住民の生の声というものが聞こえてこないのである。

地方公共団体の反応は?
せっかく世間の方で議論が始まったというものの、肝心の地方公共団体の方では反応が鈍いのはなぜだろうか。

いや、鈍いというのは言い過ぎであろう。兵庫県では知事の音頭取りで職員による自主研究が始まったと聞いているし、東京都では、懸賞論文を募集したり、愛知県でも職員の研究が始まったりと、いくつかの県でいろいろ動きがでてきているのは事実だ。

しかし、そういう動きがなんとなくひとつのうねりとして感じられないのはなぜなのだろうか。

もちろん、僕自身の情報収集の偏りと言ってしまえばそれまでなのだけど、それにしても、各種の会合や大会やその他のインタビュー記事を見ていても、たとえば県レベルでいうと、どうも各県の県知事さんたちは、こうした地方分権論議に熱心でない人が多いように思える。

県知事が熱心でないとしても、各県庁の優秀な人たちが、なにかこれを機会に考えようとする動きが澎湃(ほうはい)としてわき起こっても良いのではと思ったりもするのだが。

県庁職員V市町村職員
話はちょっとそれるが、県庁職員と市町村職員とではいろいろな点で違いがある。

たとえば地域づくり、むらおこしといった面についていえば、これは市町村職員、とくに町村職員の中にやる気もあり、実践している人が多い。県庁職員というのは、自分の住んでいる地域とどうしても一歩距離ができていまうことが多いように思える。

これに対し、県庁職員、特に本庁勤務の人になると、感覚的に中央省庁に近い部分がでてくる。中央省庁での勤務を経験したことがある人も一定数いることもあるだろうし、逆に中央省庁から来ている人がいることもあるかもしれない。そのせいか、市町村職員の中は名物職員、キーパーソンと呼ばれている人もいるものの、県庁職員の中で、そういう人というのを思い浮かべることがない。

正直言って県庁職員の中には、資質はあるものの、力を持て余している人がけっこういるのではないかと思う。県庁職員というのは地域の中でも一番のシンクタンク集団といっていいだろう。ところがその割には、実際にやっている仕事は、国の決めたことを地域に合うよう、若干アレンジしながら実施していくといったことが多く、持っている能力を最大限生かすという場面が少ないのではないか。

県庁職員でも、たとえば中央省庁で四、五年勤務すると、自分でものを考え、立案し、結果についての責任まで負うことを日常的にさせられる。

そうした経験を積んで県に帰ったある職員が、「県に帰ってもっともやらなくなったことは、新しい文書を作ることだ」と言っていたが、なるほどというところがあるように思う。せめてこうした論議には、その能力をいかんなく発揮していただきたく、期待を込めてエールをおくりたい。

たしかに考えなくちゃいけないことは多いから
たしかに地方分権といっても実際にはいろいろ考えなければならない。

たとえば、陳情や要望の処理。県や市町村だと、理事者側の答えとしては、だいたい「ご趣旨はごもっともであるが、国の制度がこうなっている。国の方に要望していくこととしたい」が多い。とりあえず国を悪者にしておけばコトが足りる。そして、そのことによって陳情者との間の対立をあまり顕在化させないことができる。しかし、これが国であれば、自分で制度を作ってやっているわけで、他人のせいにできないから、なんとかかんとかやっていることに理屈をつけて議員や住民に納得してもらわなければならない。

ところが地方分権となればその手は使えない。「国が悪い」ではなく、自分たちが責任を負わなければならなくなる。

カネの問題もある。地方分権を進めていって、地方分権推進策のひとつとして、財政自主権を充実すればするほど、たとえば東京都と沖縄県との格差は大きくなるだろう。もちろん、最低限の保証をするような地方財政均衡システムは何らかの形で続けるにせよ、今の交付税を中核とする財政制度よりも手厚くなることは考えにくいだろう。

ということは、地方分権のバランスシートを考えると、一定の財政力のある東京だとか、愛知だとかそういう県ではマイナスということになるのかもしれない。あれ!、この県の名前、どこかで見たと思ったら、地方分権に熱心な県ではないですか。ということは、やっぱり自分の所にプラスになるから一生懸命やっているのかしら。

という誤解を受けないためにもぜひ、全国の地方公務員のみなさん、とりわけ県庁職員のみなさん、大いに地方分権論議をまきおこそうではないか。

それにしても、地方分権については、手ごろな入門書さえないのはどういうことなのだろう。

地方自治に関係の深い某省庁の人びとに対しても、解釈論ばかり出すのではなく、ぜひ地方分権のビジョンを示していただきたい、とエールをおくっておく。

杠 玄照とは古川 康のペンネーム
杠 は、佐賀の特徴的な苗字なので、佐賀の人間だということをさりげなく表現しています。玄照 は「玄界灘を照らす男」という意味で気概に満ちたネーミングです。